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2023年7月10日

2023年7月10日 ピレモンへの手紙 1章

『神が喜ばれる回復』 アイゾン直子

 ピレモンはコロサイ教会の信者でした。彼は奴隷を所有する裕福な人だったそうです。彼はパウロの福音を信じてキリスト者となり、彼の大きな自宅には信者たちが礼拝に集まっていました。確証はありませんが、このピレモンの家がコロサイ教会であった可能性は高いと言われているそうです。ピレモンへの手紙はコロサイ人への手紙と共にコロサイ教会に送られたといいますから、ピレモンへの個人的な手紙であると同時に、会衆の前で読まれることを前提に書かれた手紙でもあったということになります(ハーベストタイム60分で分かる新約聖書参照)。

 パウロはピレモンについて、主イエスへの愛と信頼はもちろん、すべての聖徒たちに対して同じ愛と信頼を持つ人だと書いています(5要約)。また彼の信者としての働きについて「私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。」と書いていることから(7)ピレモンは教会のリーダーであったのかもしれません。

 ところで、この手紙が書かれた当時のパウロはローマの獄中にいました。身動きが取れない彼に代わっていろいろな人たちが諸教会に派遣されていきますが、コロサイ教会へ派遣されることになったうちの一人にオネシモという人がいました(コロサイ4:9)。彼はピレモンのもとから逃げ出した逃亡奴隷です。何をして逃げることになったのかは分かりませんが、逃げた後にパウロに出会い、彼のもとで回心しました。パウロは彼を「獄中で生んだわが子」「私の心そのもの」と呼んでいます。それだけ彼の信仰はパウロを喜ばせるものでした。

 コロサイ教会はユダヤ人と異邦人たちから成る教会でしたが、他の教会と同じようにいろいろな教えによって分裂を起こす危険性がありました。そこでパウロは彼の弟子であるティキコとオネシモを遣わすことにしますが、オネシモには解決しなければならない問題が残っていました。その問題とはピレモンとオネシモの関係についてでした。

 オネシモはパウロのもとで霊的に成長し、もう一度主人ピレモンに仕えることを望んだのかもしません。しかしパウロはオネシモが奴隷としてコロサイに戻ることは望んではいませんでした。パウロはピレモンに彼を奴隷としてではなく、愛する兄弟として迎えてやって欲しいと伝えます。ピレモン自身がパウロを仲間だと思ってくれるなら、自分を迎えるように彼を迎えてほしいと頼んでいます。

 自分を師と仰ぐ人からそのように言われたなら、誰でもその言葉に従うと思います。しかしパウロが求めていたのは強いられてそうするのではなく、ピレモンの自発的行為を望んだのでした。それはキリストの愛に根付く赦し、関係の修復を望んだということです。ピレモンが自発的にオネシモを愛する兄弟として迎えることは、ピレモン自身にはもちろん、コロサイ教会にとっても祝福になることをパウロは確信していたと思います。

 ピレモンとオネシモの関係について黙想しながら、初めはピレモンが被害者でオネシモが加害者といった視点で読んでいましたが、幾度か読み返すうち、そういった区分け事体が間違っていることに気づきました。キリストをかしらとする教会という視点で眺めるなら、被害者、加害者などは存在しないのです。みこころに従おうとする者同士が一つになることを拒むなら、キリストのからだを建て上げることは不可能となり、そのような状態が問題なのです。

 罪はすでに過去、現在、未来に渡って赦されていますが、問題は残ります。回心したオネシモが主のご用のために働こうとして、主人ピレモンとの間に横たわる未解決の問題を示され、悔い改めに導かれたように、私自身も未解決の問題を示され、当事者に悔い改めをする機会が与えられました。主のご用のために働く者を主は守られます。悔い改めもまた、主の守りの中にあるからこその恵みの一つなのかもしれないと考えさせられました。主に在って、何一つ無駄ではないことに感謝したいと思います。

 祈り:愛する天のお父さま。ピレモンへの手紙を通して悔い改めに導かれたことをありがとうございます。ピレモンとオネシモの回復がコロサイ教会にとって祝福となったように、私自身の悔い改めもまた、ホノルル教会に祝福をもたらすものとなりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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