hccnichigo

4月15日

2024年4月15日 士師記19章

『神から離れるな』 

 イスラエルの王がいなかった時代、民はそれぞれが正しいと思うことを行っていました。彼らは、異教の民を追放せよという主の命令に背いた結果、霊的にも道徳的にも崩壊していったようです。特にギブアでの戦いはイスラエルにとって民族の傷となりました。

 ギブアでの戦いとは、ベニヤミン対11部族による内戦のことですが、その原因となったのは、エフライム山地の奥に寄留していたレビ人の妻に起こった出来事にありました。夫を裏切って実家に帰った妻は、迎えに来た夫と帰路の途中、ギブアというベニヤミンの町で襲われ、暴行を受けた後、死んでしまいます。その肢体を夫は連れ帰って12の部分に切り分けると、イスラエル全土に送り付けました。このことによって、イスラエル全土は怒り、ベニアミン族との戦いが始まっていきます。

 同じ国民同士で戦う時代というのは、悲しい時代だと思います。それぞれが自分たちを正しいと信じるものに従い、異なる相手を滅ぼして行くのです。究極の自己中心です。しかし、それをさばくことのできる人など、神を除いては誰もいないのです。誰であれ、ある一定の条件が揃うなら、人の道を踏み外してしまう危険性を秘めているのだと思います。だから主は、気を付けなさい、と彼らの残虐な行為を通して、警告を発しているのではないかと思います。レビ人の夫や、ギブアのよこしまな者たちのような冷淡さや残忍さなど自分の中にはない、などとは言えないということだと思います。

 私たちは、神から離れるなら、どこまでも堕落して、人の心を失ってしまう生きものなのだと思います。みことばに留まらずに、自分の考えや正しさを求めるなら、孤立していく者なのだと思います。なぜなら、この章に登場する人たちは皆、神から離れた結果、人の心を失って、孤立した人たちだったと思うからです。

 レビ人は山地の奥に住んでいたのではなく、寄留していました。本来なら大祭司に仕える働きがあったにもかかわらず、一人で山地の奥に寄留していました。ユダのベツレヘムから側女を妻に迎えてはいますが、それが愛の関係にあったかは疑問です。レビ人の妻になった側女は、夫を裏切りました。側女の父は、夫であるレビ人との宴会をしましたが、そこに娘は参加していません。また、ギブアには寄留していた老人がいました。彼には多少の良心はあったものの、レビ人の代わりに自分の娘とレビ人の妻を差し出そうと考えたところに、人としての良心を疑います。

 ギブアのよこしまな者たちは、文字通り、堕落し、人の心を失っていました。そうでなければ、あのような残忍な行為が出来るはずがありません。そしてそこに追い打ちをかけるかのような夫の態度に唖然とします。彼は戸口に倒れている妻を抱きかかえることもなく、ただ「立ちなさい」と声をかけただけでした。反応がないのを見て死んでいることを悟りますが、彼女の死について嘆いてもいません。淡々と、彼女をロバに乗せて連れ帰り、そこで彼女の肢体を切り刻むという行為に出た時点で、彼はすでに人ではなかったと、私は思いました。

 主はこの忌まわしい出来事を通して私に「神から決して離れてはいけない」と語ってくださったように思いました。どんなことがあっても、みことばに留まり続け、主に信頼して歩みなさい、と語ってくださったように思いました。苦しくても、悲しくても、主はいつも私とともにいてくださいます。心新たに、主の御足の跡を、歩み始めたいと思います。

 

祈り:愛する天のお父さま。吐気をもよおすような残虐な出来事を通して、決して神から離れてはいけないことを学びました。神のいない環境に自分を置くなら、私も彼らと同じことをしてしまう者なのだと、心の奥底にある闇を照らされたような気持ちです。新たな気づきに感謝いたします。あなたの御名がとこしえにほめたたえられますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子

参照:King’s Comment、民数記3章、レビ記21章、ヨシュア記21章、ホセア9:9、ハーベストタイム旧約聖書シリーズ士師記

31
5