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5月14日

2024年5月14日 ルカの福音書23章

『あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます』

 主イエスと一緒に十字架につけられた二人の犯罪人、一人はイエスを罵り、「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを救え」と言った。救い主である事を証明してみせろと言うのである。今の世に住む、自分の姉も、聖書は素晴らしい文学書と言っている、つまり作り話であると思っている人が多い。イエス・キリストが救い主、それならば証明して見せたら信じると言うのである。

 群衆も嘲って、他人は救ったが、自分は救えないとののしった。マタイ27章には、イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。とあるので、この強盗たちは、十字架に打ちつけられる初めの頃には、二人とも、イエスを嘲っていた様子が描かれている。

 一体全体、なぜ一人の犯罪人は嘲る者から主イエスを信じる者へと変わったのか。それは主イエスの祈りを十字架の上で聴いたからだと確信する。

34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

 一説によると、この言葉は繰り返し語られた文法用語であると説明されていましたが、自分も主イエスが繰り返し、祈っていたと思います。十字架に兵士たちによって釘打たれる時も、吊り上げられた時にも、群衆が嘲っている時も繰り返された。ローマ兵たちは上官の命令に従って動いている、その中に自分も居たのです、思えば、会社員であった時には、上の命令を何も考えずに忠実に守っていた。それこそ兵隊の様だった。そして、群衆の中にいる自分、もし自分があの時、初めて見る十字架のイエスに対してどう思ったか、それは何かきっと悪い事をしたために刑罰にかかっていると思った事であろう。また祭司の中にも自分がいた、働く事が自分の役目と生涯かけて信じていることに相反する者が出てきた時には、その相手を攻撃した経験もある。そのような者たちを、お赦し下さいと祈っているイエスの祈りの言葉を、直接聴いたのは、同じ十字架に架かっている犯罪人や十字架の二人、そばにいた者たちであったに違いない。

 同じように、イエスの祈りを聞いていても、二人の犯罪人のように、信じる者と嘲る者とに別れてしまう。主イエスの前には、信じるか信じないかの選択以外の立場は無いのだ。信じた者は、心が洗われて、43節「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」救いのみことばを受けるのです。

 また、十字架の主イエスの気持ちを思いました。やっと3年半ほど費やし、弟子達を育ててきましたが、彼らは自分を見放したように、羊の牧者が打たれたためにバラバラになったようですし、救いに来た目的である、聖なるユダヤの民は、救われずに逆に自分を十字架に押しやりました。父なる神はというと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」イエスは孤立無援で死に向かおうとしていた、孤立無援のその時に、隣の十字架の犯罪人が、ただ一人主を信じたのでした。主イエスは、本当に嬉しかっただろうと思います。これも父なる神が十字架の我が子に送った愛の印だったのでしょうか。全ての人の罪を受けるという重責を果たす覚悟はできていても、誰一人として味方がいない中で、一人の救われた者に光が当てられたのです。やがて信じる者たちが続々と出て来る事が確信された場面のように思うのです。

祈り

 十字架の言葉が自分が救われた言葉でした。信じる者と心を変えてくださった事に感謝しております。どうか救われた者として日々、成長する事ができますように導き続けて下さい。

アーメン 

文:森 宗孝

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