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5月20日

2024年5月20日 サムエル記第一5章

『神の箱』 

 ペリシテ人たちによって奪われた神の箱はアシュドデ、ガテ、エクロンと言ったペリシテの都市を移動しました。アシュドデで主は、偶像を打ち、それを礼拝していた人たちを腫物で打たれました。ガテでは大恐慌を引き起こし、多くの住民を腫物で打ちました。エクロンでも同じように大恐慌を引き起こし、民を腫物で打ちました。

 これら一連の出来事から、イスラエルの神は偶像の神々にまさる偉大なお方であることを学びます。神はご自身で大いなるわざを為し、ご自身の力と権威を証明されました。偶像は人間に守られる存在ですが、神はご自身で働かれ、それを遮るものは何もないのです。「わたしはある、という者である」(出3:14)というみことばが心に響きます。私が信じている神は自立自存の神であり、被造物のような始まりを持たず、永遠に存在しておられるお方でした。

 そのような神を信じて信仰生活を送っているはずなのですが、時にその神を差し置いて、自分のような者が神に代わって問題を解決しようと行動してしまう時があります。仕事でも家庭でも教会でも、問題を見つけたら何とかしようとしてしまいます。それはまるで、自分が神のごとく振舞っている姿であったと、この章を読んで気づかされました。神は私の助けなど必要のないお方なのに、です。

 ごく最近、私はYouTubeで自らを牧師、ではなく牧仕と名乗る方の動画を見ました。それはある教会の牧師を名指しで批判している動画でした。内容は、牧師を先生と呼ぶことに対して肯定的であった牧師に対する批判の動画でした。5千人以上の人がその動画を見ており、コメント欄には牧師を先生と呼ぶことに肯定した牧師への罵倒であふれていました。さらにそのコメントを書いた人たちの多くがクリスチャンであったことに驚き、同時に悲しみも覚えました。

 私はこの牧仕を名乗る方の働きを懸念しました。これはいけない、と思ったのです。私はネットを利用して彼が以前通っていた教会を探し当てました。そしてその教会の牧師に、彼について連絡をしようか、どうしようかと考えていたとき、次のみことばが与えられました。

『人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりです。しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。』(ピリピ1:15‐18)

 牧仕を名乗る方が配信する動画は聖書的ではありませんでした。しかし、見せかけであれ、彼はキリストを伝えていました。その動画によって迷惑を被る方もおられるでしょうし、私のように心配する人もいるでしょう。しかしパウロは「それが何だというのでしょう」と言いました。動機はなんであれ、キリストについて語られているなら、それを喜ぶというパウロの信仰に「主を恐れることは知識の初め」(箴言1:7抜粋)というみことばを思い出しました。

 サムエル記5章は、神を差し置いて問題を解決しようとする私に、神の偉大さについて分かりやすく示してくださいました。自信過剰であった信仰を悔い改めます。主に赦され、愛されてここに居ることに感謝する信仰生活を大切にしたいと思いました。

祈り:愛する天のお父さま。神の箱が移動したその先々で、あなたは大いなるみわざを為されました。あなたは、私たちの弁護などなくても、ご自身でその力と権威を証明することのできるお方です。状況がどんなに悲観的であっても、神の支配は揺るがないことを覚えて、主をほめたたえたいと思います。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 文:アイゾン直子

参照:Clay「第一サムエル記」

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