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6月16日

2024年6月16日 サムエル記第二1章

 今日からサムエル記第二にはいる。一章では、サウル王とその息子ヨナタンの死を知ったダビデの深い悲しみが述べられている。

 サウル王から何度も命が狙われて逃亡生活を送ってきたダビデは、本来ならばほっと肩の荷が下りた気持ちになるのではないかと思うが、逃亡中も死んでからもサウル王への謙遜さは失っていなかったのである。そればかりか、死んだことを知ったら、自分の衣をつかんで引き裂いてしまうほど悼み悲しんで泣き、夕方まで断食したのである。なぜそこまでと思うが、それは、サウル王が主に油注がれた者であったということを重要視したからです。

 ダビデがイスラエルの陣営から逃れてきたアマレク人に言った14節のことが心にとまった。「ダビデは彼に言った。『主に油注がれた方に手を下して殺すのは恐れなかったとは、どうしたことか。』死にかけているサウル王がアマレク人に殺してくれと頼んだので、殺したことをダビデには赦すことができなかったのである。そして、このアマレク人を家来の一人によって討ったのである。ここを読んで思ったのは、主によって油注がれた方を討つのは神ご自身であることです。

 サウル王から命を狙われて逃亡生活してきたのは、これも神の摂理だったと解釈されています。ダビデにとっての逃亡生活は神からの試練だったのです。その試練を通して彼の信仰が強められていったのです。そこのところからヤコブの手紙1章2節、3節、4節の御言葉があたえられました。

「私の兄弟たち。様々な試練に会うときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」2節

「あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。」3節

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者になります。」4節

 ダビデは、サウルとヨナタンの死を悼み哀歌を歌ったのである。特にそのなかの26節は、ヨナタンへの本当の友としての愛が込められた歌に心に響いた。

 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。主から油注がれたかたが王であろうと、牧師であろうと、又、イエス様の十字架によって救われたクリスチャンであろうと、自分の思いで討つことは決してしてはいけないことをダビデをとおして学ばされました。復讐は、神様だけができることです。私たちができることは、お互いを愛し合うことです。私たちの教会の兄弟姉妹達のために祈り、支え合っていくことができますように導いて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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