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6月21日

2024年6月21日 サムエル記第二6章

『神の箱』

 ダビデがイスラエル全体の王となり、エルサレムを首都とした直後に、神の箱をエルサレムに運び入れるために、精鋭三万人の兵士を集めるところから6章は始まります。主の臨在がなければイスラエルを治めることは難しいと思ったダビデは、「神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。」(3節) 

 彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである(6節)。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ(7節)。牛がよろめいてひっくり返そうになったため、ウザは善意で箱に触れたのに、神の怒りに触れて打たれて死んでしまうとは、何と悲惨な出来事でしょうか。人間的な善意に過ぎず、神の御心ではなかったということでしょうか? 

 なぜ彼らは神の箱を新しい荷車に載せて運ぼうとしたのでしょう? 民数記4章15節によれば、「宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わってから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死ぬことのないようにするためである。これらは、会見の天幕でケハテ族が運ぶ物である。」しかも、それを運ぶことができたのはレビ人の中でもケハテ族に属する人たちだけでした。それ以外の人は運ぶことができませんでした。彼らが担いで運ぶことができるように箱の四隅には金で出来た環が取り付けてあり、そこにアカシヤ材で出来た棒が通されてあったと説明されています。つまり、主の臨在を求め、神を礼拝しようとしたダビデの思いはすばらしかったのですが、神のみこころではなく、この世の方法を取り入れてしまったからでしょうか。

 ダビデの心は激した。主がウザに対して怒りを発せられたからである。その場所は今日までペレツウザと呼ばれている(8節)。

 その日、ダビデは主を恐れて言った。「どうして、主の箱を私のところにお迎えできるだろうか。」 ダビデは主の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。神の箱を運び上がることによって多くの人が死ぬのではないかと畏れ、ダビデは、ガテ人オベデエドムの家にそれを回した。主の箱はガテ人オベデエドムの家に三か月とどまりましたが、主はオベデエドムと彼の全家を祝福されました。すると「主が神の箱のことで、オベデエドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデエドムの家からダビデの町へ運び上げた。(9~12節)

 不敬虔な態度でキリストに近づくことは危険なことですが、敬虔な態度でキリストを求めるなら、そこに大きな祝福をもたらされます。神の御前にへりくだり、敬虔な態度で主を求め、主の祝福の与えられるものでありたいと思います。

主の祈り:愛する天の父なる神さま、御名を褒めたたえます。ダビデのようにあなたの臨在を求めて祈ります。どうか、あなたの御心、ご計画を私たちに示して下さい。 感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン

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