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6月26日

2024年6月26日 サムエル記第二11章

「しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。」(27)

 ダビデの人生における大失敗、汚点です。人の妻バテシェバと関係を持ち(姦淫の罪)、その罪がばれないように画策し、果てはその夫ウリヤを謀殺(殺人の罪)しました。ダビデのイメージが一気に悪くなる、とんでもない罪を犯したのです。

 多くの王様の年代記は、王の名誉を貶めるような出来事は書きません。王の成功だけをかなり盛って書かれるのが普通です。しかし聖書は、ダビデの過ちを容赦なく書き記します。

 

 ダビデの過ちの原因は、油断と言えるでしょう。権力と名声を得たときが一番危ないのです。ダビデは神から目を反らし、自分の思うままに行動してしまったのです。

 このダビデの過ちから一つ学ぶことは、人間は、頂上に上った時こそ、落ちるリスクも高くなるということです。人類の歴史に繰り返されるパターンです。 

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)

 また、このダビデの過ちが聖書に記されることで、私たちは神の恵み深きことを知ります。どんな失敗を犯したとしても、真に悔い改めるなら、神は再び立ち上がらせてくださる。失敗して人生終わりではないという事を私たちに告げてくれます。

 詩篇の51篇には、ダビデの魂の叫び、本気の悔い改めが記されています。

 私たちは、このダビデの過ちを反面教師として教訓を学びます。同時に、神の恵み深きことを知ります。自分の罪を知ること、神の恵みを知ること、この二つを知ることが大切です。

 自分の罪に嘆く者たちでありたいと思います。同時に、その罪のために十字架にかかってくださったイエスに心を向けたいと思います。 

 天の父なる神さま

 ダビデの過ちを通して、私たちの持っている罪性の恐ろしさと、その罪を赦す神の恵みを知ることが出来て感謝いたします。

 自分の内にある罪を嘆く者でありますように、そしてその姿で主の十字架を仰ぎ見る者でありますように。十字架という全ての答えが与えられていることを感謝します。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士

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