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6月4日

2024年6月4日 サムエル記第一20章

『ヨナタンとダビデ』

 東京の知り合いに、ダビデが大嫌いな人間がいるのです。人の妻バテシバを横取りして、そのご主人ウリヤを殺してしまう、そんな男をクリスチャンが拝んでいる事が理解できないとハッキリと断言しておられます。果たして私たちはダビデに対して、彼の犯した罪に目を向けるのか、それとも悔い改めの心の方を見るのかで立場が分かれるのでしょうか。今日の20章には続けてサウル王の息子ヨナタンとベツレヘム、問題のダビデ、未だ若く純情なダビデとの友情が、父親サウル王の憎しみを挟んで展開してゆきます。

16~17節 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。

 

 自分を愛するほどにダビデを愛したから連想するのは、マタイ22章39節「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」との主イエスの言葉ですが、サウル王の息子はこの言葉通りにダビデを愛しました。黙って父親の言う通りにしていれば、イスラエル王国の跡取りとなる立場にいる息子のヨナタンですが、心は父親から離れて、ダビデのために力になりたいと思ったのでしょう。 主に近づけば近づくほど、人の心は素直になるのではないでしょうか。そんなダビデも、やがて国王という権力者となり、全てが思い通りになった時に、悪魔の誘惑を受けて主から離れてしまうのです。

 ダビデ嫌いの友よ、あなたも神から離れてしまった経験はないのですか。自分が罪を犯した思いを持っていないのですか。罪とは神への反逆です、神という的から外れてしまった道です。そのような緋の罪を、真っ白にできる方、主イエスを未だ心に入れていないのですね。 

 

 私たちは誰であり、弱さを持つ人間です。色々な誘惑を受ける身です。権力、財宝、色欲によってサタンの誘惑は神から私たちを切り離そうとしているのです。それと同時に、主は私たちを鍛えるために試練を与えられますが、この試練は神にもっと近づくための一歩となります。 私たちには、自分に対して投げられているもの、私たちが受けるものが、主に近づく試練なのか、主から話される誘惑なのかを私たちは見分ける知恵が必要ですね。

祈り

どうか私たちが、みことばを毎日のように食することによって、誘惑を遠ざけることができますように、試練であれば、みことばを持ってさらにこれを乗り越える力が与えられますように。アーメン

文:森 宗孝

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