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2日前

2024年7月14日 ヨハネの福音書5章

 べテスダと呼ばれている池で38年も病気にかかっている人とイエス様との会話に目が留まった。ちなみにべテスダとは「あわれみの家」という意味である。エルサレムの旧市街地にあるアラブ人居住区の一角にあり、現在ではその一部が発掘されているそうです。

 当時エルサレムには、べテスダの池(あわれみの家)というのがあり、そのほとりには多くの病人がいました。池の水がかき回されたときにそこに入ったら癒されるという藁にもすがる思いで多くの病人が集まってきたのです。そこに、イエス様が38年も病んでいる人に目を留められて、6節(抜粋)で「良くなりたいか」と彼に声をかけられた。普通なら誰でも言葉を選ぶことなく、「はい。良くなりたいです。どうぞ癒してください。」というのがあたりまえのように思うが、しかしこの男はまわり口説く延々と語るのである。7節、「主よ、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」と病人は答えた。自分にはもうチャンスがない、絶望的な気持ちであるということを言ったと思います。その叫びをイエス様はすでにご存知で、6節で「イエスは彼に言われた。『起きて床を取り上げ、歩きなさい。』と述べられた。すると、すぐにその人は治って床を取り上げて歩き出したのである。癒された彼はきっと天にのぼる気持ちだったと思います。38年も病の痛みとの戦いが一瞬にして癒されることは、病んでおられる人々にとっての大きな希望であります。そういう完全な癒しはイエスさまにしかできないことです。

5:14「後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。『見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたにおこるかもしれません。』

 私たちに言えることではないでしょうか。自分が人生の危機に陥った時に、心が荒れすさみ挙句の果てに人をうらみ、人のせいにしてしまうのです。そういうことでは心は癒されません。その人の癒された後に歩む生き方を語られたのだと思わさられるところであります。私たちクリスチャンにも言えることです。罪赦されたあとに歩む道は私たち自身にかかっているのではないでしょうか。

 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。病気で失望の中におられる人々の為に祈り、支えてあげることができますように導いてください。38年の間病んでいる人のように、イエス様に声をかけられた時に、ありのままの自分の叫びをすることができますように、そして、イエス様に従うことができますようにお委ねします。病んでる時は心が卑屈になり絶望します。その時はどうぞあなたの御言葉を悟ることができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

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