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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 ヨブ記37章はエリフの最後の言葉である。


 エリフは自然現象(雷、稲妻、大雨、雪、氷、冬の寒さ)を通して、ヨブに、神の偉大な人知では測り知れないことを語っている。つまり、この自然界で起こっていることはすべて神の御業によって、ご自分の思いのままに成し遂げられているということを述べているのです。神が我々の創造主であること。その創造主にたいして、高慢にならずにへりくだる心をもつように、そして、知恵ある者を決して神は見捨てられないと24節で言っています。


「だから、人々は神を恐れなければならない。神は心に知恵ある者を顧みられないだろうか。」―24節―


 実にエリフのシャープな語り方であります。私たちにも問われることだと思います。この世界を創造されたすべてのものに対して、どれだけ心から歓喜して、感謝の気持ちで接しているかどうかを。


 私は、洗礼を受けてしばらくしてから目に映るものすべてが鮮明に美しいと思いました。かつては、特に大輪に咲いた花々にだけ目が集中していました。だが、いつしかひっそりと咲いている野の花々がこんなにも可憐で神秘的に思えてなりませんでした。その時、神さまの奇しいみわざに触れさせてもらった気持ちで感謝でした。いそがしい日々をおくる私たちにとって14節の御言葉は大切なことではないでしょうか。


「ヨブよ、これに耳を傾けよ。神の奇しいみわざを、たち止まって考えよ。」


 神の奇しいみわざを考える時は、私たちの心に平安が宿るのではないでしょうか。感謝が、希望が、癒しが、喜びが満ち溢れることになっていくのだと思います。教会のある姉妹が花々を活けている時の彼女を見ていると、彼女が花々を摘んでいる時にはきっと神の奇しいみわざに触れられているだろうなと思わされます。それと同時に、花瓶に生けられた花々がとても可憐で、それを見た自分にも神の奇しいみわざが伝わってくるようで大変心の癒しになり、感謝の気持ちでいっぱいになりました。



 主の御名を心から感謝します。

私たちを創造してくださった主に心から感謝します。あなたが創造してくださった自然界の奇しいみわざにもっと触れていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



「見よ、神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれがいるだろうか。誰が神にその道を指図したのか。誰が『あなたは不正をした』と言ったのか。神のみわざを覚えて賛美せよ。人々がほめ歌った、そのみわざを。」(22~24)


 エリフと他の3人の違いは、エリフは、神に焦点を当てている所です。確かに3人の友人も神のことを語ってはいますが、彼らの焦点はあくまでもヨブなのです。しかしエリフは、ヨブに向けても語りますが、それ以上に神のことを語っています。そして神を賛美します。私たちは、このエリフの姿勢から学ぶことができます。


 ヨブのような苦難に遭っている人の多くは、その問題に目を向けます。しかし、その問題は、多くの場合本当の問題ではないことがほとんどです。表面に現れている問題の奥に実は本当の問題が隠されていることがあります。

 その表面に見える問題に目を向けている限り、本当の解決は訪れません。一度、そこから目を離し、視点を変えることが必要なのです。

 ヨブの問題は、実際に起こった災難です。そしてその災難がなぜ義人であるヨブに起こったのかというのが大問題です。そしてヨブも友人も、この「なぜ?」の答えを探し始めるのです。しかし、そこに焦点を当てている限り本当の解決は得られません。それはヨブ記の長いやりとりを見れば一目瞭然です。


 エリフしたのは、ヨブの視点を神に向けさせることなのです。なぜ義人のヨブに災難が起こるのかという事ではなく、ただ神に焦点を当てるのです。神が神であることの確かさを証するのです。

 そして神が分かると、かんじがらめになっていた鎖が解けるように、新しい道が開かれていくのです。この後、神はヨブと3人の友人に、彼らが「なぜ?」と問うていたことには一切答えないのです。しかし神が神であることを神ご自身を証するのです。その時、ヨブは「神」の存在に圧倒されるかのようにして納得してしまうのです。


 問題に支配されているような状況においては、視点を変える、神に目を向けることは、本当の解決への道となります。


天の父なる神さま

 私たちがどんな問題に直面しようと、その問題を支配しておられる主に目を向けることができますように、私たちを励ましてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン          

文:関真士


『神を待て』


 年少者エリフの聡明なヨブに対する反論が続いている。彼の口調は鋭く、ナイフのようにヨブの心に突き刺さっているのではないかと思うのです。しかしながら、もしも、身体も心も魂も痛んでいる友人を前にして、正論であるとしても、彼の傷に塩を塗るような、反論は神が喜ばれることばでは無いのではないか、とも思うのです。

私たちが苦痛を覚える時には、慰めのことば、優しさがよりもの薬ではないかと思いませんか。しかし、年長者三人との激論の末に、エリフも感情的になっているものの、ここには鋭さ、あなたは神を待て!と大変な真理を語っておられるのです。


 14節「神を見られない」とあなたが言うときには、なおさらだ。しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」ここまで来るまで、ヨブと友人達の激しくも、正しい人が患難に会うのは何故なのか、というどの時代でも、人が疑問と思っている問題に、それぞれが意見を述べてきたのですが、ここにきて究極的に、聖なる神を待ち望むこと、造り主に助けを求めながらも、神を待つことが私たちの回答だと聡明なる結論に導かれているのではないかと思います。


 私が親しくしている友人、仏教徒ですがキリスト教にも興味をもっている友人、彼は、幼稚園の先生をしたり、町のために奉仕したりしてきた奥さんをガンでなくされました。ご自分も地域を助ける公職におられたので、どうして正しく生きてきた私たちから、幸せを取り上げてしまうのかと悲しみと同時に、神に対して訴えておられます。このような方々、皆さんも知り合いやご自分のご家族を失った経験をされた方々は、現代でも多くおられるのではないでしょうか。信仰を深めるためと言われても、納得がいきません。苦しみはなかなか去らないのです。


 今年に頂いた年賀状、91歳になる知人が漢文に詳しく、今年の気持ちを表されていて、毎年異なるので楽しみにしているのですが、今年は「去者日疎」去る者は日に疎し、私たちはたくさんの人と出会い、そして別れるものです。別れた人とは日がたつにつれて疎遠となるのは、しかたがないこと。という古詩19首に歌われている漢文です。これとヨブとは直接の関係はありませんが、愛する者が安眠されても、いずれは再会するという希望、そのようにされる神を待てとここではエリフが悟っているのではないか、と思いました。


祈り

私たちには、主イエスの再臨を待つ、神を待つというはっきりとした目標を頂きました。空しい約束ではありません、主イエスが十字架の死から復活されて、私たちにも復活の身体のい約束をされたからです。神を待つことのメッセージに感謝します。アーメン 

文:森 宗孝


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