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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『王座争い』


 イスラエルの民は私たちに王を与えて下さいと願った時に、主はサムエルを通じて、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたがに答えはしない。なぜなら民がわたしを王として彼らを治めることを拒んだのだから。 と第一サムエル記8章18節で記されていますが、この章第二サムエル3章では、1節(王座を狙って)「サウルの家とダビデの家の間には、長く戦いが続いた。ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった。」と記されています。預言の通りにイスラエルの民は、人間の王の権力争いのために泣き叫ぶことになります。


 王座をなぜ欲しがるのか。全ての事を決定出来る権力の座には、麻薬のような魅力があり男どもは争って、しのぎを削って求めたくなるものなのです。一旦王座を手に入れると、その力を保ちたいという肉の欲に囚われてゆくのです。ダビデも王として安泰した時から、脱落が始まっていますし、その息子ソロモンも栄華を極めた時から、偶像礼拝、浪費が侵入してきてしまいます。


 やがて、サウルの軍の長であったアブネルは、ますます優勢になってゆく12部族の中の、一つであるユダ族の王であるダビデに対して、他の11部族をまとめて、ダビデを王とする提案をしにダビデ王の住むヘブロンにやって来ました。


21節「アブネルはダビデに言った。「私は、全イスラエルをわが主、王のもとに集めに出かけます。彼らがあなたと契約を結び、あなたが、お望みどおりに王として収められるように致しましょう。」ダビデはアブネルを送り出し、アブネルは安心して出て行った。」


 アブネルは、世の動静を読み、戦いの流れがダビデ王になびいている事を理解した上での決断だったのか、ダビデ王に仕えて勢力を得ようと考えたのか、理由は明らかではありませんが、ダビデに従う決心をしたのは間違いありません。しかしここで、ダビデの従姉妹のツェルヤの子ヨアブ軍団長は、弟を殺された事を恨みに、アブネルを暗殺してしまうのです。骨肉の恨みでの殺人でした。


39節「この私は油注がれた王であるが、今日の私は無力だ。ツェルヤの子であるこれらの者たちは、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行う者に、その悪にしたがって報いてくださるように」 王座争いには血肉の戦いがあるのです。


祈り

 どうか本当の君主であり、全てを公平に愛し、裁く方でおられる主イエス・キリストが

私達の王となり、再臨されますように! 本当の平和は王なる主が来られた時に完成する事を信じて、再び主が来られる事を待ち望みます。 アーメン

文:森 宗孝


 サウル王の死後もダビデは、主に伺うことを忘れなかったのである。とても学ばされる教訓である。


 ダビデはユダの町のどれか一つへ上っていくべきかを主に伺った。主は、「上って行け」と言われた。ダビデの賢さは次の言葉ではないだろうか。「どこに上ればよいでしょうか」と聞いた。あくまでも主の御声を自分が納得するまで伺っていくところが彼の信仰の深さではないだろうか。私だったら、「はい。わかりました。」で終わってしまいそうです。これ以上、主に伺うことがとても恐れ大きくて次の言葉がでてこないのではないだろうか。主はダビデに、「バビロンに」と言われた。なんでも主に伺うダビデは、まるで肉的な父と子の関係を思わされます。そういう神との大胆な関係を持っていけたらいいなということが強く心にとまりました。

 

 ダビデがヘブロンでユダの家の王であった期間は、七年六か月であった。


 ダビデの謙遜さは、サウル王を丁寧に葬ったヤベシュ・ギルアデの人々を主の御名で祝福し、自分への真実も願った箇所、(5節から7節)が心にひびきました。


「あなたがたが主に祝福されるように。あなたがたは、あのような真実を尽くして主君サウルを葬った。」―5節―


「今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。あなたがたがそのようなことをしたので、この私もあなたがたに善をもって報いよう。」―6節―


「今、強くあれ。勇気ある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油を注いで、自分たちの王としたからだ。」―7節―


 そして、主に伺うことをしなかったアブネルが率いるイスラエル軍とヨアブが率いるダビデ軍の間で闘技がはじまって、それが深刻化して同胞同志が無益な殺し合いになったのである。とても悲しいことではないでしょうか。そこにダビデでがいたら同胞同志の多くの犠牲者はでなかったでしょう。なぜならダビデは、主に伺うことをする人だからです。私たちも何か事を始める前にまず主に伺うことを優先することを覚えていきたいものです。



愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を心から感謝します。私たちも恐れなく大胆にあなたに近づいていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 今日からサムエル記第二にはいる。一章では、サウル王とその息子ヨナタンの死を知ったダビデの深い悲しみが述べられている。


 サウル王から何度も命が狙われて逃亡生活を送ってきたダビデは、本来ならばほっと肩の荷が下りた気持ちになるのではないかと思うが、逃亡中も死んでからもサウル王への謙遜さは失っていなかったのである。そればかりか、死んだことを知ったら、自分の衣をつかんで引き裂いてしまうほど悼み悲しんで泣き、夕方まで断食したのである。なぜそこまでと思うが、それは、サウル王が主に油注がれた者であったということを重要視したからです。


 ダビデがイスラエルの陣営から逃れてきたアマレク人に言った14節のことが心にとまった。「ダビデは彼に言った。『主に油注がれた方に手を下して殺すのは恐れなかったとは、どうしたことか。』死にかけているサウル王がアマレク人に殺してくれと頼んだので、殺したことをダビデには赦すことができなかったのである。そして、このアマレク人を家来の一人によって討ったのである。ここを読んで思ったのは、主によって油注がれた方を討つのは神ご自身であることです。


 サウル王から命を狙われて逃亡生活してきたのは、これも神の摂理だったと解釈されています。ダビデにとっての逃亡生活は神からの試練だったのです。その試練を通して彼の信仰が強められていったのです。そこのところからヤコブの手紙1章2節、3節、4節の御言葉があたえられました。


「私の兄弟たち。様々な試練に会うときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」2節


「あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。」3節


「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者になります。」4節


 ダビデは、サウルとヨナタンの死を悼み哀歌を歌ったのである。特にそのなかの26節は、ヨナタンへの本当の友としての愛が込められた歌に心に響いた。



 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。主から油注がれたかたが王であろうと、牧師であろうと、又、イエス様の十字架によって救われたクリスチャンであろうと、自分の思いで討つことは決してしてはいけないことをダビデをとおして学ばされました。復讐は、神様だけができることです。私たちができることは、お互いを愛し合うことです。私たちの教会の兄弟姉妹達のために祈り、支え合っていくことができますように導いて下さい。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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