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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「ヒゼキヤはユダの全地でこのように行い。その神、主の前に、良いこと、正しいこと、真実なことを行った。彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕において、律法において、命令において、彼は神を求め、心を尽くして行い、これを成し遂げた。」(20、21)


 前章においてヒゼキヤは過越しの祭りを復興した。そして31章では、民の捧げものから祭司とレビ人の受ける分を管理し、分配するようにした。このことは、主の前に良く、正しく、真実なことであった。


 旧約の時代には、神殿における祭儀を執り行うための祭司(アロンの子孫)と、それを補佐し神殿の様々な働きに携わるレビ人(レビ族)がいた。この者たちは、自分の土地、財産を持たない。その代わりに民の捧げものから生活の糧を得ていた。


 この祭司、レビ人とは、現在においては、人々の献金から生活の糧を得ている牧師に似ている所がある。ただ旧約時代のシステムをそのままそっくり現代の牧師制度に適用することはできないし、祭司とレビ人が現代の牧師のモデルということではない。しかし、本質的な事において、私たちは聖書から学ぶことができるだろう。


 キリスト教会の歴史の中で、教会における牧師の立場というものが様々に変遷されてきたが、ホノルル教会は、牧師制度を採用している。米国では、牧師は自営業者のカテゴリーに入っている。つまり教会から雇用されているのではなく、お互いの合意と契約のもとに成立している関係ということだ。それは教会は、その牧師が神に導かれていることを、牧師は自らが神にこの教会に導かれていることを、この神の導きに関して両者の合意のもとに成立している関係と言える。この関係性のゆえに、正確には、牧師は給与ではなく謝儀を受け取っているという理解である。このヒゼキヤの行った、良い、正しい、真実なこと、つまり祭司、レビ人の立場と生活を守るということは、現在の牧師制度にも受け継がれている。


 現代において、特に日本においては、一つの地域教会のサイズが小さいために、一人の牧師の生活を支えるだけの謝儀を支払うことが出来ないために、牧師が二つ、三つの教会を牧会することや、牧師が牧師以外の仕事をしながら生活の糧を得るということが一般的になりつつある。これは、日本だけではなく米国においても見られる傾向である。


 この現状の中で、キリスト教界において、牧師制度というものが問い直されている。私たちは、教会が主から委ねられた宣教命令を果たすために、どのような形が現代において最も相応しいものかを考えていく必要があるように思う。



 天の父なる神さま


 私たちは、時代の大きな変化の中にあります。教会における牧師の存在意義が問われ、また牧師制度が問われています。この中で、あなたの建てようとしている教会にとって、最もふさわしい形とは何でしょうか?どうぞ私たちに知恵と知識とあなたへの謙遜な心をお与えてください。そしてあなたの御心に歩むことができるように助けてください。


主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                               文:関真士


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『祈りは天に届いた』


 ヒゼキア王はエルサレムに来て過越の祭りを祝うようにと、イスラエル全土に呼びかけて、おびただしい数の大集団が集まった。イスラエルの祭りには、特別の意味があり、その中でも3大祭りとされている祭、エジプトの奴隷から解放された春の過越の祭り、それから数えてモーセが十戒を受け取った事を祝う七週の祭り、ペンテコステ。最後に、モーセと共に荒野での40年間、テント生活をしながら過ごした仮庵の祭りは悔い改めと主への感謝が中心の秋の祭りがある。


 ヒゼキア王は、まず奴隷からの解放を記念する過越の祭りのために全土から集まるように呼びかけた。北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、人々は弾圧の中にあったことであろう、そのために希望を与え、一つの聖なる民族として結束することを目指したのだと思う。


 主イエスが十字架にかかったのは、過越の祭りの時でした。闇の中にいる私たちを救い出すために過越の祭りを選ばれたのでしょうか、そして主から十戒を与えられたように、ペンテコステでは聖霊が与えられたのです。恐らく、主イエスが再臨されるタイミングは、仮庵の祭りの時にはにヨミキプールと呼ばれる贖罪の日があって、この日に聖なるイスラエルの民が悔い改めて、主イエスがキリスト(メシア)である事を信じ、言葉に表す時に主の再臨があるのではないかと思うのです。


 18〜20節抜粋「いつくしみ深い主よ、彼らをお赦しください。彼らは聖なるきよめの規定どおりにいたしませんでしたが、心を定めて神を、彼らの父祖の神、主を求めています。」主はヒゼキアの願いを聞き、民を癒やされた。」ここの場面で、主イエスの十字架の言葉を思い出しました、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからずにいるのです。」ルカ23:34


祈り

イゼキアが赦しを祈って主が願いを聞き入れてくださったように、主イエスの祈りである、私たちの赦しをも主は聞き入れて下さり、主イエスの復活をもって、主なる神の赦しを示されました事に感謝いたします。アーメン 

文:森 宗孝


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『主の目にかなったヒゼキア王』


 この29章から32章まではヒゼキア王の治世が記されています。彼は北王国イスラエルの滅亡を目にしながら、南ユダの宗教改革をすすめました。混乱の時期に建国の精神に戻ろうと努力をしたのです。この同時代には、預言者イザヤ、ミカ、ホセアが活動し、主に立ち返れと民に悔い改めを求めたのも、この時代でした。主は聖なる民が道を踏み外す時に、預言者達を送りました。果たして私たちの時代、神の子である我々が道を間違えないようにするにはどうしたら良いのでしょう。

11節「子たちよ、今、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立って仕えさせ、ご自分に奉仕する者、香をたく者とされたからです。」


 日本のことわざに「のどもと過ぎれば熱さ、わすれる」とありますが、私たちはおうおうにして、災いに遭った時にだけ、神からの救いを求める者となりがちです。一旦、その災いや苦難が過ぎてしまうと主に仕えるという約束をしたこと事態わすれてしまう傾向があるのではないでしょうか。生まれたばかりの赤子は、神の存在を教えられるまで知りません、これが原罪と呼ばれるものなのでしょう。私たちは、主の存在を忘れないように、日々、あたかも身体が食料を必要としているように、みことばを食べて、心の栄養を受け取る事が必要だと思います。


 ヒゼキア王の宗教改革は、主の宮の浄めから始まり、宮の備品の聖別から、感謝の捧げ物

である全焼の捧げ物で主の宮の奉仕の準備をしたのです。しかしながら私たちは南ユダもやがて、バビロン帝国によって滅ぼされていく運命であることを知っています。ヒゼキア王の宗教改革は、主の目にかなった行いであったにもかかわらず、やがてユダの民の心は、主から離れてしまうのです。王のように上からの指導による宗教改革には限りがあります。


祈り

私たちは、主に香をたく者、天におられる主に祈りを授ける者として選ばれました。どうか我々が主のみことばを食べ、主に仕える者としての自覚を忘れませんように、主に感謝し続ける者となりますように アーメン 

文:森 宗孝


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