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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 サムエル記第一の最後の章は、サウル王の最期について語られています。


 イスラエルの王サウルは、ペリシテ人との戦いで追い詰められ、彼の息子たちもこの同じ戦いで命を落とし、イスラエル軍は大敗してしまいます。そして、神さまに選ばれたイスラエルの王サウルは、自らの剣で命を絶つ道を選びました。


「サウルは道具持ちに言った。『おまえの剣を抜いて、私を刺し殺してくれ。さもないと、あの無割礼の者たちがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶりものにするだろう。』しかし、道具持ちは非常に恐れて、とうていその気になれなかった。それでサウルは剣を取り、その上に倒れ込んだ。」4節


 サウル王の最期の選択は、戦いで敗北した絶望、ペリシテ人に捕らわれることの恐怖から来たのでしょう。サウル王と同じように、人は何かを恐れたり人生に絶望してしまう弱さをもちあわせていると思います。私自身も死にたいと思ったことがありました。と言っても、死ぬ勇気も持ち合わせてない弱い自分でしたが、神さまに出会えたことで今があります。


 神さまは私たちの弱さの中で強さを示し、助けてくださる方です。もし自分の力だけで人生を切り開いて、人生の壁にぶつかったとき、その問題をひとりで解決をしようとすると、サウル王のような生涯をおえることになることもあり得るかもしれませんね。

 忘れがちな日々の中で、神さまに出会ったこと、そして愛と導きによって引き上げてもらった経験をもう一度思い起こさせてもらいました。感謝します。


「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」(箴言16:9)


愛する天のお父さま 私たちが絶望や困難に直面するとき、あなたの力と知恵に頼ることができますように助けてください。私たちの思考をはるかに超えたところで働かれるあなたの計画を信じ、御心に従うことができますように導いてください。私たちの内なる聖霊を強め、あなたの愛に包まれた生涯を歩むことができますように。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 この章で目に留まったのは、「主によって奮い立つ」(6)というみことばだった。アマレク人に襲われて、街は焼かれ、家族も家畜もみな連れ去らわれたとき、ダビデの部下たちはダビデを石で打ち殺そうと言い出した。サウル王に追われ、逃げ回り、敵であるペリシテ人の地に住むことにすら従ってきた部下たちだった。戦い続きの上、その前の章ではペリシテ人の地に住むために、あやうく同胞をも襲わなければいけないような状況も味わい、ずっと緊張感の中にいて誰もが心も体も疲れていたに違いない。また、ダビデの判断に疑問や不満を持っていた者もいただろう。


 ここにきて、自分たちの留守中にアマレク人にすべてを奪われたのだ。部下たちの怒りが最高潮に達し、ダビデを石打ちにしようと言い出した。この絶体絶命の時、ダビデは「主によって奮い立った」のである。きっとダビデは神様に助けを叫び求め、神様が彼の心を強めて、その状況に立ち向かう力を与えて下さったのだろう。


 神様の導きに従い、アマレク人を追うことになった。そのとき、部下たちもちゃんとダビデについて来るのである。今石打ちにしてしまおうといっていた者たちがである。29章でイスラエルを襲うことをせずにすんだことも含めて、ここにダビデに対する神様の守りを感じる。結果、すべて失うことなく奪い返し、戦利品まで得た。

 

 ダビデはいつも神様を愛し、神様に従って生きようとしていた。でも、どんなにサウル王にとって自分は敵じゃないと示しても信じてもらえず、王に追われ続けて、うんざりしていただろう。絶望と否定的な思いに支配され、神様に伺うことをせずにペリシテ人の地に住むという決断をした。(27:1)自分を守ることを考えて、それが一番安全だと判断したのだ。なのに、すべてを失い、サウル王ではなく、部下たちにいのちを取られそうになったのだ。それは全く想定外だっただろう。


 神様はそんなダビデを憐れんで下さり、彼がご自分に向き直ってくることを今か今かと待っておられたのではないかと感じた。だから、ダビデがもう自分ではどうしようもない状況に立たされ、神様を求めた時に、すぐに神様の霊がダビデを包んで下さり、力を得たのではないかと思った。


 天のお父様、今日のみことばを感謝いたします。自分の欲しいもの、また、自分の計画があるとき、神様に従っているつもりでも、離れてしまっていることがあることを思わされています。そんな時、間違った判断をしてしまいます。そのことで苦しくなって、やっと自分が違うところを見ていたと気づかされます。でも、今日の聖書箇所のように神様は間違いに気が付き、戻ってくるものをいつでも迎え、また祝福して下さる方です。間違いをたくさんする私ですが、気づくまでそばで支え、悔い改めに導き、また祝福で満たして下さることを感謝いたします。主の御名によって、アーメン。


 29章は、ダビデが窮地に陥った時に主の不思議な摂理によってそこから抜け出ることができた事が記されています。


 ダビデとその部下は、アキシュが率いる軍団に加わってその後に続いた。しかし、ペリシテ人の首長たちは、ダビデの一行と戦いに行くことを強く反対したのである。なぜならダビデが戦いの最中に心変わりして敵対することがあるかもしれないのでこの戦いから外してほしいことをアキシュに強く迫ってきたのである。


 アキシュは、ダビデのことを信用していたがペリシテ人の首長たちはダビデのことを良く思っていなかったので彼らの思いを聞かずにはおれなかったのです。そして、アキシュはダビデにすべての事を話して明朝早くペリシテ人の地へ帰るようにと言ったのである。ダビデはこのことを聞いて、「王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」と残念がっていました。だが、アキシュは、ペリシテ人の首長たちが言ったことをダビデに伝えたのである。「彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない。」9節(抜粋)ここの箇所を読んでいると、確かにダビデが心変わりしてサウルにつくことも考えられることであるが、それ以上に首長たちはダビデには神の力が及んでいることも悟ったのではないだろうかと思わされました。


 このことは、決してダビデが計画したことではないことがわかります。そのことが起こる前の日まで、ダビデはイスラエル軍と戦わなければならない窮地に立たされていました。しかし、主なる神はダビデを窮地から抜けださせるようにすべてを備えていてくださったのである。これはすべて神の摂理だったのです。主に油そそがれた者は決してほろぼされることはないです。。私たちクリスチャンにも同じようなことがいえます。私たちは、イエス様の十字架の血潮によって救われたので決してほろぼされることはないのです。何という主の憐み、恵みでしょうか


 私たちも普段の生活の中でいろんな窮地に追いやられることが多々にあります。そのようなときにすべてを主に委ねてダビデのように主の摂理のなかで生かされることを希望していきたいと示されました。



 愛する天の父なる神さま。日々の生活の中でいろんなことが多々に起こっています。私たちがそのようなときにはどうすれば窮地から抜け出ることができるのかを示された思いです。そのようなときに祈ることは大変です。でもそれでも私たちは勇気をだして戸をたたき続けていきます。どうぞ一歩踏み出す勇気と、祈って、信じることができる道へ歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



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