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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 ウジヤは、その父アマツヤの代わりに、十六歳で王になり、五十二年間王として統治しました。彼は、主の目にかなうことを行い(4節)、神を求めたので、彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされました(5節)。そのため、彼の名声は遠くにまで広まり、彼が驚くべき助けを得て、強くなりました(15節)。彼は、アマツヤ王のように国に偶像を持ち込むこともなく、ヨシャパテ王のように間違った同盟を組むこともありませんでした。


 でも、彼は、その繁栄の絶好期に、王として高ぶってしまい、香の壇で香を焚く、祭司にのみ許された祭儀を執り行おうとしました(16節)。それゆえに、神から裁かれ、ツァラアトに冒されてしまいます。これは思い皮膚病で、死ぬ日までツアラートに冒され、ツアラートに冒された者として隔離された家に住みました。彼が主の宮から絶たれたからでした(21節)。


 繁栄や成功が、神様を敬う心を奪ってしまい、私たちを滅ぼしかねない危機に追いこんでしまいます。それは、旧約の時代も、私たちが生きる現代も変わりません。


「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。私は決してゆるがされない。」(詩篇第62篇1と2節)


主への祈り:天の父なる神様、全能なるあなたの御名をほめたたえます。常に上を身あげてあなたに聞き従うことが出来ますように、聖霊様助けてください。 

主イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン


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「彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった。」―2節―



 アマツヤも父ヨアシュと同様に、途中で主に従わなくなったことが記されています。主に全き心をもって最後まで従っていくことの厳しさ、むつかしさ、高慢さが問われるところではないでしょうか。


 アマツヤが最初に主に従ったのは、父ヨアシュを暗殺した家来たちを処罰したが、彼らの子どもたちは殺さなかったことです。これは、モーセの書の律法の中で主が命じておられたことでした。


父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が死ぬのは、自分の罪過のゆえでなければならない。」―4節(抜粋)―


 アマツヤは見事にこの律法に記されているところに従ったのである。


 そして、次に主に従ったのは、神の人の語ることばに従ったのである。つまり、神の人は7節で、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからと告げました。どういうことかと言うと、主を信じない兵士による戦いでは勝利を得ることができないということです。さらに、神の人は語ります。行くなら、神はあなたを敵の前につまずかせると。神には、助ける力も、つまずかせる力もあるからと。そこまで言われたら従わないわけにはいかないでしょう。彼はしぶしぶと従ったのです。そして、アマツヤはエドム人を討ったのである。


 しかし、アマツヤはセイル人が信じる偶像を持って来て、それらを自分の神々として立てたのである。主は怒って預言者を遣わして、偶像礼拝を戒められますが、アマツヤは聞きいれませんでした。アマツヤはエドムとの戦いに勝って高慢になっていたのです。イスラエルの王ヨアシュの忠告も受け入れなかったアマツヤは打ち破られたのである。その後、アマツヤは十五年生きたが、彼が主に従うことから離れたとき、最期は謀反にあいラキシュで殺されるという悲惨な最後でした。主に従うことから離れてしまった末路でしょうか。



 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。この待降節の頃に示されたことは、この世に下りて来られたかたは、ただお一人であられるイエス様だけです。イエス様の十字架の無償の愛を覚えて、主に従うことから決して離れていくことがないように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


hccnichigo

「ヨアシュは、祭司エホヤダが生きている間は、主の目にかなうことを行った。」(2)


 この章は、かなり気の滅入る内容だ。前章のように特別な器として神に守られて王になったヨアシュであった。彼は、壊れた神の神殿を建て直した。まさにリバイバルの器である。しかし、祭司エホヤダの死後、人が変わったようにアシェラ像に仕え、国に神の裁きをもたらした。しかも祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺害してしまった。まるで別人のようなヨアシュの姿である。聖書は出来事を美談でまとめようとしない。目を覆いたくなるような人間の罪を明記する。


 しかし、このヨアシュの姿は、まさに私たち人間の現実でもある。私たちの内には、天使のような清さと悪魔のような醜悪さがある。人間はどこまでも崇高な者になれるし、悪魔のような悪者にもなれる。これが人間の現実だ。だからこそ、私たちには救い主が必要なのだ。イエスの十字架と復活の恵みによって、罪と悪が清められ、打ち勝つことができる。


 私たちにとっての祭司エホヤダは、大祭司主イエス・キリストである。このお方が私にとって生きている主であるとき、私たちは正しい道を歩むことができる。しかし、この方から離れるとき、その存在がなくなる時(死ぬ時)、私たちは悪の道に進んでしまう。


 私にとって、主は生きておられるのか、それともただの文字、形式、習慣になってしまっていないだろうか。私の信仰には命があるだろか。名ばかりの信仰ではないだろうか。私たちの大祭司主イエス・キリストは、決しては死ぬことはない、復活の主である。このお方と共に歩み続けて行きたい。


天の父なる神さま


 私たちは、まさにヨアシュのようです。あなたから離れるとき、とんでもない悪の道に歩んでしまいます。どうか、聖霊が日々私たちを励まし、導き、主から離れることのないように守ってください。そしてあなたに再び会うその日まで、あなたに従い続けることができますように、守り導いてください。


主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                文:関真士


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