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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心は激しく震えた。」(5) 


 このサウルの恐れは、王自らが国から追放した霊媒や口寄せに頼るという常軌を逸した行動に駆り立ててしまいました。

 もはや真の神に頼るという道筋は失われていました。それでも恐れの中で何かに頼らざる得ない中で、律法で禁じられている霊媒、口寄せに頼ってしまったのです。


 現代でも占いやオカルトにはまる人が大勢います。みんな不安を抱え、何かに頼りたいのです。しかし占いやオカルトは、入口は天使を装いますが、中身は恐怖で縛ります。決して、恐れは取り去られません、逆に恐れは増していきます。


 私たちは、どんな時でも真の神を天の父と呼べるという、この恵みいただいています。「恐れを覚える日に、主に信頼せよ。」(詩篇56:3)と語られているように、私たちには、信頼できる父がいるのです。サウル王を通して、神から離れてしまった者の哀れさを見ます。心が痛みます。


 私たちは、幸いにも恵みの時代に生かされています。イエスの救いがあり、聖霊の助けがあります。いつでも天の父のもとに行くことができます。この恵みに感謝して、どんな時にも、主にだけ信頼していくことができるようにと、心から願います。

 

 天の父なる神さま

 恐れがあるからこそ主に信頼し、天の父のもとに行くことができますように。心の中に、主への大路が真っすぐに造られますように。この恵みの時代に生かされていることを感謝いたします。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士



『本物の仲間』


 ダビデはこの27章で、今まで敵として戦っていた相手である、ペリシテ人の地に逃げていったとあります。自分が命を賭けて守ろうとした、自分の民イスラエルから見捨てられたダビデに、自分の民から同じように見捨てられた主イエスの姿を見ます。


 しかし、ダビデには600人もの本当の仲間がここにいたとも聖書は記しています。多くの場合、王になる道を歩んでいる者に着いて行くのが人々の性です。でも、王国を追われる身となったダビデ、落ち目の時のリーダーについて行くには、それ相応の勇気がある者でしかできないのではないでしょうか。2節「ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。」 今までの敵に降りていったダビデですが、彼を最後まで慕う本物の仲間がここにいたのです。この仲間によって、やがてダビデ王国が建国して、今のイスラエル民族も憧れるイスラエル王国、主の臨在される国となっていったのは、命を賭けていた仲間達の力に支えられたダビデ、そして主に愛されたダビデが成長していく試練となった出来事です。


 やがて、ユダヤの民に英雄として迎えられるダビデ王にも、許されない事もあるのです。ダビデ王は、どんなに主に捧げる神殿をエルサレムに建設したかったことでしょう。幕屋ではなく立派な神殿を建てたかったのです。その建設のための、資材や金銀も用意していたのですが、主がお許しになりませんでした、それはダビデの手が血に染まってしまっているからです。

 11節抜粋「ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。」とあります主のため、自分のために闘ったとはいえ、彼の手は血に染められてしまっていて、聖なる神殿建設を任すことはできなかったのでしょう、彼の息子のソロモンの時代まで、エルサレムの神殿建設は行われていません。


 波乱万丈の生涯を送ることになった、羊飼いの少年ダビデですが、主に選ばれ、それを心から自覚して主に感謝する一生を捧げたダビデも、多くの試練を通過させられましたが、本物の仲間が支えていた事も忘れてはなりません。さて、私たちの本物の仲間は誰でしょうか。

 自分のために命を抱えて闘ってくれる六百人もの仲間、大変な時代に選ばれたリーダーです。


祈り

 今の時代は、恵みの時代ですが、一緒に主のために戦う友 教会や主イエスのもとに多くの人々が集まってくる事に感謝いたします。どうか自分だけの力に頼るのではなく、本物の仲間たちと、一緒になって主のための闘いが続けられますように、その勇気を授けてください。アーメン 

文: 森 宗孝


 26章は、24章での出来事と似た事件が記されています。そして、26章はダビデとサウル王との最後の出会いの場となると言われています。


 今回もサウルを討つにはあまりにも良い機会がダビデに与えられていたのである。ダビデの部下は前回同様にサウルを討つことをダビデに催促したが、ダビデは前回同様に今度もサウルを討たなかったのです。そして、槍と水差しとを取ってその場を去ったのである。


 ここでダビデの神への信仰の深さ、従順さが表されています。サウルが主に油そそがれたものであるということ、又、主がサウルをさばかれることを確信したから打たなかったのです。最期までサウルに手をかけなかったダビデの行動を通して、マルコの福音書13:13の御言葉が示されました。「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」


 ダビデがサウルにいった23節と24節の言葉はすばらしい信仰の持ち主を見た思いにさせられました。やっとサウルの心の目がひらかされて、ダビデを祝福したのです。


「主は一人ひとりに、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。」23節


「今日、私があなたのいのちを大切にしたように、主は私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます。」24節


 主は、私たち一人ひとりに、私たちの正しさ、真実に応じて報いてくださるというすごい恵みを与えて下さっています。その報いを受けるに相応しい生活をしていけるようになれたらいいなと思わされました。



 愛する天の父なる神さま。自分のエゴに本能されてしまっていつまでも暗闇の中から抜け出ることが出来ずに苦しんでいる人たちを憐れんでください。そして、先に救われた私たちが、彼らを希望の光の道に導くことができる橋渡しをすることができますように用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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