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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『ダビデのサウルからの逃亡』


 ここでは、ケイラとジフの荒野におけるダビデの逃亡生活が描かれています。ただ、ダビデはサウルの追跡から逃亡していたわけではなく、アドラムの要害に逃亡していた時、「ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」と言ってダビデに告げる者がいて(1節)、ケイラの町を救うために、ペリシテ人の討伐に向かいます。


 ダビデはペリシテ人によって略奪されたケイラの人々の身を案じ、「行って、このペリシテ人たちを討つべきでしょうか。」と、ダビデが主の託宣を求めた上で行動を起こそうとします。主はダビデに、「行け。ペリシテ人を討ち、ケイラを救え。」と答えますが、ダビデの部下は、ここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラのペリシテ人の地に向かって行けるか不安でした。ダビデはもう一度主の託宣を求めると、「さあ、ケイラに下っていけ。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」と主が答えられます。ダビデはその兵士たちの声を退け、御声に従い、ペリシテ人を討ち、ケイラの住民を救いました。


 ダビデは兵士たちの心配を聞くまでもなく、サウルがやがてケイラにおけることを聞き追撃に来ることを察知し、祭司エブヤタルにエポデを持って来させ、サウルが伝えられているとおり、ケイラに下って来て、その際ケイラの住民は自分をサウルに引き渡すかどうか、主に伺いをたてました。主の答えは、ケイラの住民は、ダビデをサウルに「引き渡すというものでした。(12節抜粋)


 これを聞いたダビデは、早速、600人の兵を率い、ケイラを去り、ジフの荒野のあちこちを逃げ回り、ホレシャの要害に隠れます。


 さて、14節の「サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」という言葉にみて取れるように、この章の主人公は、あくまでもダビデではなく主ご自身です。ダビデがどんなに素晴しい人間であっても、主に用いられる道具に過ぎないということでしょうか。神は、より強力で数の多い軍勢の側にいるとは限りません。数の少ないダビデに神は共におられ、ダビデをサウルの手に渡されませんでした。だからダビデをサウルは捕らえることができませんでした。


 ダビデはジフの荒野を転々とサウルの追撃を逃れて移動し、ジフのホレシャに留まりましたが、そこにもダビデを捕らえようとサウルが出陣しようとしていました。しかし、そこにサウルに気づかれないように、サウルの息子のヨナタンが来て、神に頼るようにダビデを励まし、「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなること確かに知っているのです。」(17節)と語り、ダビデとヨナタンは主の前で契約を結びます。ヨナタンはこのような素晴らしい励ましをダビデに与えて、自分の家に帰ります。この後、二人は二度と会うことはなかったと言われています。


主の祈り:常に、主の御心を仰ぐダビデ、そして、サウルの息子でありながら、ダビデを父サウルの手から遠ざけ救おうとする真の友であるヨナタンの類まれな信仰を垣間見ることが出来ました。私も、彼らのように主の御心を第一に仰ぐ強い信仰を持てるよう、聖霊様助けて下さい。主よ、あなたの愛と恵みを感謝します。 アーメン 


 関牧師がメッセージの中で十字架の縦と横について語っていた時にサウルのことを思いました。私たちは、神との縦のつながりと他者との横のつながりを大切にすることは、耳にたこができるほど語られて聞いてよく知っています。また聖書からも学び私たちのからだにしみこんでいます。そのことは、私たちクリスチャンにとって最も大切なことだからです。しかし、残念なことにサウルはその両方を失ってしまったのです。つまり、神から離れてしまったら十字架の縦と横のつながりが無くなってしまうことであるからです。愛することができなくなると、恐怖、憎悪、殺しへの結末になってしまうのです。


 ダビデはたった一人での逃避でアドラムの洞穴に避難した。だが、主なる神は彼を決して一人にはしなかった。そこには、家族だけではなく、生活に困窮している者、サウルに不満にある者たち、役四百人の者たちを快く受け入れてダビデと生活することになったのである。これらの人々はダビデの信仰に目が向けられたことだと思います。すべて神のご計画の中だったのでしょう。


 それとは、対照的にサウルの残酷な行為におもわず目をそむけたくなります。特に何の罪もない祭司アヒメレクが殺されます。それだけで収まらないサウルはさらに祭司の一族、ノブの町に住む民間人・年齢差別なく皆殺し、動物までも殺してしまうのである。常識では全く考えられない、狂気としか言えようがありません。このようなことをするサウルは完全にただひたすらダビデへの憎しみからでた悪魔的な行動としか思えません。


 祭司アヒメレクの息子エブヤタルが、一人逃れてダビデのところに来てすべてを話した。それを聞いたダビデは、彼を守ることを約束するのである。自分のせいでおきた大虐殺に、ダビデの心痛はいかほどだったかと思わされます。窮地に陥ったダビデを通して、主なる神は私たちになにを語ろうとされるのか大いに学びたいところであります。


 人生の窮地に立たされた時に私たちが目をどこに向けて立っていくことができるのか。そういう時でもしっかりと主なる神だけに目をむけて立ち上がっていくことができるようになりたいと思わされるところです。



 愛する天の父なる神さま。あなたによって日々、生かされていることを心から感謝します。ダビデが一人になってもあなたは多くの人々を彼にあたえてくださりました。ダビデの、神への信仰の姿があらわれたからだと思います。私たちクリスチャンも、何度も挫折しますが、そのつど悔い改めて、あなたの栄光をあらわすことのできる日々を送らせてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

 前章において、サウル王のダビデ殺害の意志が明確となったことで、ここからダビデの逃避行が始まります。多勢に無勢、イスラエルの精鋭部隊に追われる身となりました。

 そこでダビデは、ガデの王アキシュのもとに身を隠します。このガデとはペリシテの地ですからイスラエルの敵になります。さすがにサウル王の追手も敵の地には入ってこれませんから、ダビデの生き延びるための策です。

 しかし、なんとペリシテ人の中にダビデの顔を覚えている者がいて、身分がばれそうになるわけです。その時ダビデは、気が狂ったふりをして難を逃れます。そしてダビデは、命からがらガデから逃れて荒野にあるアドラムという洞穴の中に身を隠すのです

(1サムエル22:1,2)。


 その時の事をダビデは詩にしました。それが詩篇34篇、56篇に収められています。珠玉のことばが語られていますが、その中から一つだけ、


「心に恐れを覚える日、私はあなたを信頼します。」(56:3)


 私も心に「恐れ」を持つことがあります。以前でしたら、その「恐れ」を持っている自分に悩み、その自分を責めます。主に信頼していたら恐れなどなくなるはずだ、と心から恐れを取り除こうと意識しました。

 しかし御言葉は、逆のことを言います。主に信頼したら恐れがなくなるのではなく、恐れを覚える日に、主に信頼するのだと。

 前者の考え方は、律法主義のリズムです。そして後者は、恵みのリズムです。


 真っ暗な洞穴の中で、「私と共に主をほめよ。一つになった御名をあがめよう。」(34:3)と、共にいた者たちを主への賛美に招きます。そして「主を仰ぎ見て 光を得よ」(34:5 口語訳)と、神の栄光の臨在へと招くのです。

 恐れがなくなったのではなく、恐れがあるからこそ主に信頼したのです。その結果、その真っ暗な洞穴は、賛美と栄光の臨在が満ち溢れたのです、

 恐れのあるままで、不安なままで、弱さを抱えたままで、そのままで主のもとに行くのです。その時、主が私たちに出会ってくださるのです。 


 天の父なる神さま

 真っ暗な洞穴の中で、そこには、恐れ、不安、恥が一杯ありましたが、あなたは、そこを賛美と栄光の臨在で満たしてくださいました。

 今も、私たちの人生の暗闇を、あなたは光に変えてくださいます。恐れのある日に、主に信頼する者たちでありますように。主を仰ぎ見る力を与えてください。

   主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


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