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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『ヨナタンとダビデ』


 東京の知り合いに、ダビデが大嫌いな人間がいるのです。人の妻バテシバを横取りして、そのご主人ウリヤを殺してしまう、そんな男をクリスチャンが拝んでいる事が理解できないとハッキリと断言しておられます。果たして私たちはダビデに対して、彼の犯した罪に目を向けるのか、それとも悔い改めの心の方を見るのかで立場が分かれるのでしょうか。今日の20章には続けてサウル王の息子ヨナタンとベツレヘム、問題のダビデ、未だ若く純情なダビデとの友情が、父親サウル王の憎しみを挟んで展開してゆきます。


16~17節 ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。

 

 自分を愛するほどにダビデを愛したから連想するのは、マタイ22章39節「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」との主イエスの言葉ですが、サウル王の息子はこの言葉通りにダビデを愛しました。黙って父親の言う通りにしていれば、イスラエル王国の跡取りとなる立場にいる息子のヨナタンですが、心は父親から離れて、ダビデのために力になりたいと思ったのでしょう。 主に近づけば近づくほど、人の心は素直になるのではないでしょうか。そんなダビデも、やがて国王という権力者となり、全てが思い通りになった時に、悪魔の誘惑を受けて主から離れてしまうのです。


 ダビデ嫌いの友よ、あなたも神から離れてしまった経験はないのですか。自分が罪を犯した思いを持っていないのですか。罪とは神への反逆です、神という的から外れてしまった道です。そのような緋の罪を、真っ白にできる方、主イエスを未だ心に入れていないのですね。 

 

 私たちは誰であり、弱さを持つ人間です。色々な誘惑を受ける身です。権力、財宝、色欲によってサタンの誘惑は神から私たちを切り離そうとしているのです。それと同時に、主は私たちを鍛えるために試練を与えられますが、この試練は神にもっと近づくための一歩となります。 私たちには、自分に対して投げられているもの、私たちが受けるものが、主に近づく試練なのか、主から話される誘惑なのかを私たちは見分ける知恵が必要ですね。


祈り

どうか私たちが、みことばを毎日のように食することによって、誘惑を遠ざけることができますように、試練であれば、みことばを持ってさらにこれを乗り越える力が与えられますように。アーメン

文:森 宗孝


 19章は、サウルのダビデへの怒りがますますエスカレートすることがのべられている。そして、ダビデを殺すことをヨナタンやすべての家来に告げたのである。だがダビデはいろんな人の好意によってサウルの殺害から逃れることができたのである。


 サウルが悪霊に悩まされているときにダビデが竪琴を弾いて癒してくれたのにその恩を忘れて、ただひたすら殺すことしか頭になかったサウルが哀れに思えてきました。これも神の摂理といえばそれでおしまいだけど、なんだかサウルがかわいそうに思えてなりません。神に背を向けてしまったら、どんなに赦しを請うても神は容赦しないということでしょうか。厳しい神の掟が目に迫ってきます。


 追いかけるサウルと逃げるダビデ、そして助ける人々のことが述べられています。特にヨナタンが父サウルにダビデを弁護することばに目がとまった。

 

「彼が自分のいのちをかけてペリシテ人を討ったので、主は大きな勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て喜ばれました。なぜ、何の理由もなくダビデを殺し、咎のない者の血を流して、罪ある者となられるのですか。」5節 


 そこまで子供に言われたら同意しない親なんてありえないでしょう。子供が親を諭すようないいかたなんてありえないことです。本来ならば逆ではないでしょうか。ヨナタンの冷静に物事を見分ける賢さがすごいと示されました。私たちも成人した子供によい教訓を示していかなければ、子供に諭されることになります。その時、子供の意見を素直に聞き入れて改めることができるようになれたらいいなと思わさられるところです。


 横道にそれましたけど、一度はヨナタンの説得に同意したが又もやダビデが戦いに勝利するとサウルに悪霊が望んで本格的にダビデを槍で壁に突き刺そうとしたのである。だが、ダビデはサウルから身を避けたので難を逃れた。サウルはダビデの家に見張りをつけて朝に彼を殺そうとした。だが、今度は妻のミカルによってダビデは逃げて難を逃れサムエルのところに行ったのである。そこからつぎの御言葉が示されました。


「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えらるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」コリント第一 10:13(抜粋)



 天の父なる神さま。私もいろんな試練を通ってきました。その時は苦しくてあなたに泣いて叫ぶだけでしたけど、泣いた涙の何倍もの祝福が与えられたということは、それはあなたが試練とともに脱出の道を備えてくださったということを知ることができ大きな恵みでした。これからも、この世では試練はつきものです。私たちがそのようなことに遭遇した時に、主は脱出の道も備えていてくださるということを心にもって歩むことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 ダビデの活躍はすごいものであった。さすがのサウルもダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。そして、ヨナタンも自分自身のようにダビデを愛して、ダビデと契約を結んだ。この契約とは友情、信頼感を意味すると言われています。さらに自分の着ていた上着を脱いでダビデに与えのである。これは自分の次の王位の権利をダビデに与えたことになると言われています。これほどまでの友情は、やはり神の霊が二人をしっかりと結び付けたと思いました。


 ダビデは、サウルが遣わすところどこへでも出て行って勝利を収めた。このことをすべての人々に喜ばれた。だが、勝利の凱旋をしたときに女たちが喜び、歌い踊りながら交わしたことばにサウルが激しく怒り不機嫌になったのである。有名な箇所でだれもが知っているみことばであります。

「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」7節(抜粋)

 ヨナタンとの大きな違いである。素直にダビデの手柄を喜べないサウルであった。


 サウルのダビデに対する態度で示されたことは、私たちクリスチャンにも言えることだと思いました。自分よりすぐれている人のことを心からヨナタンのように喜ぶことができるだろうかと。イエスの教えにもあるように、「神を愛し、自分を愛し、隣人を自分のように愛しなさい。」と述べています。その信仰をもっていたら、他者のすばらしい賜物を賞賛できるのではないでしょうか。


 ダビデは何度もサウルに殺されそうになるが常にその危機を逃れることができたのは主が彼と共におられたからです。いろんなたくらみでダビデを殺そうとしても、ヨナタンや娘のミカルによって助けられます。神に油をそそがれた者は決して命をおとすことがありません。ヨナタンが勇気をだして父の前にでて談判したのはきっと命がけだったと思います。ヨナタンの言う事は一時的に受理されたが、やはりダビデを殺す計画は続行されたのである。ダビデの逃亡生活の始まりです。


 

 愛する天の父なる神さま。サウルとヨナタン、そしてダビデを通して示されたことは、自分もサウルのような気持ちになることがあります。サウルは神から見放されてしまいましたが、私たちはイエスさまの十字架によって神から見放されることは決してないことに感謝の気持ちでいっぱいです。その恵みをイエスさまをまだ知らない人々に伝えることができますように用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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