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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 17章は、イスラエル人とペリシテ人の戦いを背景に、若きダビデが巨人ゴリアテを倒すという劇的なエピソードが描かれています。


 左の絵のように、ゴリアテの背の高さは六キュビット半(約2.7メートル)と非常に背が高く、胸当ての重さは青銅で五千シュケル(約57キログラム)そして手に持つ槍の鉄の刃は六百シュケル(約7キロ)と重厚でいかにも強そうな武装をし、イスラエル人に向かって1対1の決闘を申し出ます。

 しかし、イスラエル人たちは、この姿と威勢に圧倒され誰もゴリアテに立ち向かうことができませんでした。私もこの時点で尻込みして後方のほうで怯えている自分の姿が想像できます。


 その頃、まだ若くて戦士ではない羊飼いのダビデに、ダビデの父エッサイの命令で兄たちに食料を届けるため陣営を訪れ、ゴリアテの挑発を耳にします。ダビデは決して恐れず、神への信頼を持ち、ゴリアテに立ち向かう決意を固めるのです。


 ダビデはサウル王に自分がゴリアテと戦う意志があることを伝え、初めは信じなかったサウル王も、ダビデの熊や獅子から羊を守った話を聞き、サウル王は彼に「行きなさい。がおまえとともにいてくださるように。」(37節)と伝えます。 サウル王はダビデに自分の鎧を渡しますが、ダビデはそれを断り、いつもの羊飼いの格好で戦いに臨み、投石袋と石投げだけを持ってゴリアテに立ち向かうのです。


「ダビデはペリシテ人に言った。『お前は剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍のの御名によって、お前に立ち向かう』」(45節)



 ダビデは「万軍の主の御名によって」戦うと宣言し、石投げを使い、たった一つの石の一撃でゴリアテの額を打ち抜き、ゴリアテは地面に倒れ、ダビデは彼の剣を使ってゴリアテの首を切り落としました。ゴリアテの死により、ペリシテ軍は恐れをなし逃げ出し、イスラエル軍は追撃し大勝利を収めたのです。


 子どもの頃から好んで読んだグリム童話のように、17章を読んでしまうと、ダビデの勇敢な行動と勝利に心が満たされ、感動して物語が終わるかのように感じました。一方、み言葉としてダビデの勝利を聴くと、ダビデの勇敢な行動には、揺るぎない神さまへの信頼と信仰がありました。彼は自分の力ではなく、神さまの力に頼り、の御名によって戦い勝利を収めることができたのです。

 ダビデのように神さまに全てを信頼し、委ねることで、自分自身の心の葛藤や未来への不安といった見えない巨人に立ち向かう力を得ることができ、勝利をすることができるという確信を深めることができます。感謝します。



 祈り

 愛する天のお父さま 今日のディボーションを通して、あなたへの信仰と信頼の大切さを学びました。ダビデのように、あなたに信頼し、勇気を持って困難に立ち向かうことができるよう助けてください。あなたの導きに従い、すべての結果をあなたに委ねます。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


『サムエルによって油そそぎを受けるダビデと、サウルとの運命的な出会い』


 やっとダビデの登場である。サムエルがサウルのことで悲しんでいる間、主はエッサイの息子たちの中に次の王を見つけたと仰せられた。そして、サウルとの運命的な出会いをするのである。これも神の摂理としか言いようがありません。


 以前イタリアに旅行に行ったときにフィレンツェのアカデミア美術館で本物のダビデ像を見た。本物の迫力は見ていてとても感動的でした。ミケランジェロのオーラが漂ってくるようで、まるで聖書の中のダビデが浮き彫りにされているようでした。筋肉隆々で大きい人だったのだろうと思いながら何度も、何度も見ました。


 話は余談になりましたが、16章ではダビデがサムエルによって油そそがれたとき、主の霊がその日以来、ダビデのうえに激しく下ったのである。主の霊が激しく下った者とは神のみこころを成し遂げる存在となっていくということです。


 それに比べて、主の霊がその人を離れると、わざわいの霊がその人を支配するといわれています。サウルがまさにそうです。そして、16章ではもう一つ、主の霊が下ったダビデと主の霊が離れたサウルの出会いである。神さまは実に人知では計り知れないことをなされます。


 日夜悪霊に悩まされるサウルのところにダビデが竪琴をもっていくのである。その竪琴によってサウルは元気を回復して良くなっていきわざわいの霊は彼を離れた。そして、ダビデはサウルに仕える者となったのである。この時点では、サウルはダビデが主によって油そそがれた者であることはしらなかったのである。だが、ダビデはサウルもかつては主によって油そそがれた者と知っていたのである。このことを知っていてサウルに仕えたということは、ダビデが全き主を信頼していたということではないでしょうか。


 

 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。ダビデとサウルを通しての学びを心から感謝します。主の霊が下ってきたとき、主の霊が離れたときのことを知って、私たちは、主の霊が離れていかないように、常に私たちに主の霊がとどまっていてくださるように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


『サムエルを王にしたことを悔やまれる主と悲しむサムエル』


 サウルの愚かさが実に赤裸々に描かれています。またもややれかしたかといったほうがいいのではと思わされるところである。


 サウルは戦いに勝った後に自分のための記念碑を建てたのである。これはまさに自分の力を誇ることである。さらに、主がサムエルを通してサウルに伝えたこと、「アマレク人を聖絶せよ」に背いたのである。サウルはアガグと、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのである。


 実にサウルの目にあまる行動は、破れかぶれの王に成り下がったとしかいいようがない。そして、主のことばがサムエルに臨んだのである。


「わたしはサウルを王に任じたことを悔む。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」11節(抜粋)

 そのことを聞いたサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだのです。


 サムエルは翌朝サウルの所に行って神の言葉を伝えた。だが、サウルはいろいろと言い訳をしたのです。ここでどうして素直に自分の罪を認めて、サムエルと共に悔い改めの祈りを主にささげなかったのでしょうか。傲慢ななると自分を見失ってしまうのですね。私たちも心にとめておきたいことではないかと思わさられるところです。


 サムエルがサウルに言った22,23節の御言葉から詩編51:17の御言葉にふれられました。

「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。」詩編51:17


 神さま。サウルの過ちを私たちも犯すことがあります。だが、私たちはイエスさまの十字架の血潮によって裁かれることを覆ってくださっていますことを心から感謝します。過ちをおかした時は、それを認めて悔い改めていくことができますように導いてください。プライドという罪にまどわされないような道を歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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