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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。

 主が語られるからだ。

『子どもたちはわたしが育てて、大きくした。

 しかし、彼らはわたしに背いた。

 牛はその飼い主を、

 ろばは持ち主の飼い葉桶を知っている。

 しかし、イスラエルは知らない。

 わたしの民は悟らない。』」2節~3節


 旧約聖書で最も有名な大預言者と言われているイザヤは、アモツの子で、貴族の家に育ち、社会的にも勢力を持つことのできる地位にあり、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の4代の王のもとで活躍しました。


 イザヤはイスラエルの罪を2~3節で強く訴えています。主がイスラエルの民を選んで大事に育ててきたのに、牛やろばよりも劣る有様だと述べています。牛やろばは自分の飼い主を知っていて、必ず飼い主のもとに帰って行くと言われています。しかし、イスラエルの民はどうでしょうか、「罪深き国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら」と糾弾しています。さらにイザヤは、イスラエルの民の罪深さを6節で、

「足の裏から頭まで 健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷、絞りだしてももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」と、その表現は「らい病患者」にたとえられているそうです。


 しかし、このような罪を犯しても、主に聞き従うなら罪がきよめられると18節で述べられています。


「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても

 雪のように白くなる。

 たとえ、紅のように赤くても、

 羊のようになる。」18節


 なんという主の慈しみ深い憐みでしょうか。


 

 天の父よ、私の緋のような赤い罪をイエス様の十字架の血潮によって聖めてくださってありがとうございます。あなたは、自分のひとり子をお与えになるほどに世を愛されました。私たちがその深いあなたの愛を裏切ることのないように、日々あなたに聞き従っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 

 愛する弟子であるテモテに対して、パウロ渾身の厳命が記されています。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2)

 私たちは、この務めに励んで行きたいと思います。


 またパウロは言いました。

「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(6~8)

 

 自分自身が召されるとき、このような言葉が言えるなら、それは本当に幸せなことでしょう。やるべきことをやり抜いたと言い切るのです。我が人生に悔いはなし! ということです。

 

 私は、今のこのように言うことがきるだろうか? その日は、いつ訪れるのか分からないのだから、今この時自分はどうなのか? と自問します。

 正直、今の自分は、まだ終われない、走るべき道のりを走り終えたとは言えない、そんな思いです。


 しかし、一日一生と言われるように、その日その日を十分に生き、与えられた務めを全うすることができるように、そんな生き方をしたいと心から願います。


天の父なる神さま

「走るべき道のりを走り終えた」と言えるような生き方できますように。そしてこの地上の最後の一息まで、あなたに与えられた使命に生きることが出来ますように。そして、この世にあってみことばを宣べ伝える者として、しっかり働くことができますように。どうぞ聖霊の力と励ましをお与えください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士


 

『信仰の失格者』


 終わりの日には困難な時代が来るとパウロは語ります。私たちの住む、今の世はどうでしょうか。終末に向かって進んでいると感じるのは自分だけでしょうか。 人々は自分だけを愛し、金銭を愛し、恩知らずで、聖書の教えと戒めを破る、汚れた者になります。とは、パウロは直接的には、ローマ帝国の道徳的な没落を示しているのかもしれませんが、すべての人類の歴史を見ると、いわゆる文明、文化が進みところには、必ず道徳が没落してゆくのを見るのです。聖書の説く自由とは、自分勝手に思うがままに振る舞う自由ではなく、主に仕えるしもべとして、本当の自由が得られる。本来あるべき人間の姿に戻ることが、自由となる道であって、人と人との関係における自由ではなく、神と人との関係が和解した時に起こる自由をさしています。


 パウロは、テモテと一緒に伝道の旅をしたことを思い起こしていて、よくテモテが降りかかった迫害や苦難=に耐えてついて来てくれたと回想していますが、このテモテの第二の手紙が、牢獄に繋がれているパウロの最後の手紙となったのです。お医者であるルカだけが、パウロと一緒に居ると描いています。


 皆さんも、クリスチャンTVのドラマである「The Chosen」をご覧になられた方もおられるかもしれません。この中には、なぜ牢獄に繋がれたパウロのもとに、ルカが一緒に居ることが出来たのかという理由を、リアルに描いています。聖書には出てきていない話ですが、お医者であるルカが、この牢獄を管理するローマの隊長の病気の子供を救うという設定で、その事があったので、ルカだけが特別に、パウロの繋がれている牢獄に入ってゆき、パウロのメッセージを筆記することができたという物語なのですが、確かに神のなさったことで、ルカが最後までパウロの筆記をすることができたのは奇跡であります。ローマ市民権を持っていたパウロは、残虐な刑である十字架刑につけられることはありませんでしたが、皇帝の命令で、最後には斬首刑となったのです。しかし、朽ちる身体を失いましたが、パウロは決して、主への信仰の失格者ではありませんでした、むしろキリストとともに死んだのですから、キリストとともに生きることになった、主イエスの愛する使徒であります。キリスト・イエスにあって生きようと願う者は、みな迫害を受けると警告していますが、良き働きにふさわしく、天では栄冠をうける希望も語っているのです。この世は神よりも、快楽を愛する者、自分だけを愛する者が増え続けます。しかし、強くありなさい、皆が離れて行ったとしても、主イエスに在って( In Christ)強くあれと、自分の身をもって示されました。


 裏切り者のイスカリオーテのユダの代わりに、くじ引きでマッティアが12使徒として選ばれたのですが、本当の12番目の選ばれるべき使徒は、パウロではなかったのかと囁かれています。自分の死を目の前にしても、主イエスに従順であり、愛弟子テモテと教会の信者たちを愛したパウロ、確かに、主イエスにとって、パウロは12弟子の一人であったろうと思うのです。


祈り

私たちは、特別な使命を帯びて遣わされた使徒ではありませんが、主イエスに学ぶ弟子であります。どうか主のみことばを学び、戒めを守れますように、主イエスを愛し続ける心を常に与えて下さい。アーメン

文:森 宗孝


 
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