top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

『新しく生まれる』


 パリサイ人でユダヤの議員であるニコデモがこっそりと主イエスに会いに来ました。ニコデモは宗教的な教師でもあったわけですが、律法を一生懸命に守り、神を愛する人だったと思うのです。でもそれだけ熱心でも、何か自分の中に満たされないものが有ったのではないか、主イエスの奇跡や行いを見て、自分には無いものをイエスが持っている、神がイエスと共にいると確信して、真剣に教えを聴きにきた人です。しかしながら、パリサイ派の目や世間体を気にして夜に訪ねてきています。この世に半分足を残しながら、天の御国にも足を伸ばしている。これって自分達の姿かもしれませんね


 主イエスの答えはかなり辛辣です。

10節「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。」と手厳しい答えです。普段の優しさではない主を見るような思いですが、主が教えたかったことは、律法をあなたの努力で守ろうとしているが、そうではない。

6節「肉によって生まれた物は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」新しく生まれ変わりなさいと仰るのですが、もしかしたら、このみことばは自分の身体から赤ちゃんを産んだ経験をしている女性の方には、新しい命を産むと言う主イエスのことばは、意外とすんなりと理解できるのかもしれません。


 このようなユダヤの宗教指導者ニコデモとの会話から、新約聖書の奥義でもある3章16節が出てきたのですね。


16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 まさに聖書の金字塔のみことばです。しかし私たちは、この神の愛ばかりに目がいってしまって、神の義を忘れていませんか。


18節「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子を信じなかったからである。」

 信じない者は、神の義に出会い、裁かれる事も私たちは伝えていかなければならないのです。

 続けて36章「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」これは、本当に恐ろしいみことばでもあるのです。


 時々、日本の方で自分はキリストを信じたいのだけれど、夫や両親は亡くなっていて、自分は彼らの行った所に行きたいのですと祖先や亡くなった主人に義理立てされる方もおられますね。主イエスを信じれば、神は愛ですから、私たちは愛のもとに導かれます、しかし信じなければ、愛もない、光もない、希望もない、平安もない暗黒の世界に行くのです。亡くなった主人の顔も見ることができない世界なのではないでしょうか。


祈り


 どうか自分の日本の家族でも、主イエスを信じていない姉たちがおりますが、主イエスを信じる事ができますように、紹介する機会がありますように。神の義の前には、平然と立てる者は誰もおりません。どうか主イエスによって、信じていない者たちが、信じる者となり神と和解する事ができますように。アーメン  

文: 森 宗孝


『カナの婚礼の最初のしるし』


 ヨハネの福音書には「しるし」が七つ記されていると言われている。カナの婚礼の奇跡が最初のしるしでした。「しるし」というのは証拠としての奇跡という意味だと言われている。これはキリストが神の子であるという証拠としての奇跡だったと言われているそうです。さらに「しるし」は、三つほどの意義があることを教えています。一つ目は、「しるし」は人間の力が尽きたときにしめされる。二つ目は、主のことばに従うときにおこる。三つ目は、素晴らしい結果を生じる。


 ぶどう酒がなくなった時にとった母マリアの行動がすごいと思った。イエスに「ぶどう酒がありません」と言ったのである。そこは、頼れる息子としていったのか、それともイエスが神の子であるのでかれならきっとなにかをしてくれると信じて言ったのか、の両方を考えさせられた。そして、それに対するイエスの答えが、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」でした。自分のお母さんに向かってそのような言い方をするのかとびっくりさせられますが、マリヤはイエス様の言われたことが理解できたのでしょう。そして、マリアは給仕の者たちに、「あの方が言われることは、何でもしてください。」と言ったのである。


 給仕の者たちは言われたことに従って水がめを水でいっぱいにしたのである。そして、それを宴会の世話役のところに持って行くとすでにぶどう酒になっていたのである。しかもそれは良いぶどう酒だったのである。母であるマリヤと給仕の者たちの疑わないでイエス様が言われたとおりにしたことは、神の栄光があらわされたということであるのです。自分の思いで行動するのではなくて、まず主に聞き従っていくことである。


 この奇跡は、イエス様がもたらしてくださった十字架の血によって、私たちの罪は赦され、きよめられ、新しいいのち、永遠のいのちという、最上の喜びを与えてくださるということを示していると言われています。

 愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を感謝します。イエス様の十字架の血潮によって、救われて、罪赦されて、永遠の命があたえられて、あなたのみことばを信頼して、心に平安、喜びが与えられていることを感謝します。このことをまだイエス様を知らない人々に証し人として用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 今日からヨハネの福音書に入ります。ヨハネは、他の3福音書とは異なる独特な視点で福音書を記しています。

 

 特に今回、心に止まった御言葉は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)です。


「ことば」とは、イエス・キリストのことです。「ことば」とは、単なる情報伝達のツールではありません。「ことば」とは、そのことばを発している人そのものです。ことば=存在なのです。

 イエスのことばは、イエスそのものです。ですから、私たちは肉眼ではイエスに出会ったわけではありませんが、イエスの「ことば」に出会っているので、イエスに出会ったと言うことが出来るのです。


 その「ことば」であるイエスが、肉体を受けてこの地上に来られました。その時に、私たちの「間」に住まわれたと記されています。「間」です。

 イエスは、人と人との間、人種と人種、民族と民族、国と国の間におられるのです。間というのは、双方から等しく見られるということです。こちら側の人にも、あちら側の人にも、等しくイエスは、神であり、救い主なのです。

 

 分断された現代の社会において、間に立っていてくださるイエスに気づくとき、双方がイエスに目を向けるとき、初めてそこに平和が造り出されていくのです。 


 天の父なる神さま。

 私たちの間におられるイエスさまに感謝いたします。私の救い主は、あちらにとっても救い主です。私たちが、どんな時でも、お互いの間にイエスがおられることに気づいて、共に歩むことができますようにどうか導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


bottom of page