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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『ベテ・シェメシュの主の箱』


 Ark of the Covenant (契約の箱)が出て来る映画、ハリソン・フォード主役の Indiana Jones 「Raiders of the Lost Ark」を思い出した。ナチス軍が契約の箱を発掘して、考古学者であるインディアナ・ジョーンズが奪い返すストーリーです。最後のシーンでナチス軍兵が契約の箱を無理やり開けてしまうのですが、そうすると中から災いの雲が出てきて兵隊たちを打ち殺す場面があります。その時に捕えられていたジョーンズは、目をつぶるように仲間に言って助かるという、単純な物語です。


 この6章では、戦いに勝ったペリシテ人の地が死の恐慌や腫物で打たれたために、この主の箱をイスラエルに送り返す、イスラエル領のベテ・シェメシュに戻すのですが、イスラエルの民であるこの町でも、主の箱を開けて、イスラエルの民を主に激しく打たれ死んでしまうのです。畏れ多い主の臨在を示していると同時に、この頃のイスラエルの民、士師記時代のイスラエル人は、自分たちの律法を学んでいなかった様子が伺えるのではないでしょうか。神に選ばれた民が、神から与えられた教えを学んでいなかったのです。契約の箱を、自分たちの都合で使っていては、神への冒涜とみなされてしまいます。


 これは、私たちへの警告でもあります。主イエスを信じる事によって、神の子とされた私たちですが、神の教えである、聖書の学びを怠ってはいけないのです。自分も洗礼を受けたばかりの時は、仕事も忙しくて日曜日は家族と教会には行くものの、聖書を開いて読む事もなく過ごしていました。後で聞いた話ですが、教会に来ても、ただただ座っているだけの人の事を、Pew Sitter 教会堂の椅子に座り続ける人と呼ぶそうです。まさに自分がそのような者だったと気付かされたのは、もっと後の事でした。


 神のみことばを知る知識は、それを自分自身がみことばを食べ、咀嚼して、魂が成長してゆく知恵となる必要があって、鵜呑みの知識だけでは打たれてしまう恐れがあるのではないかと、この章を読みながらベテ・シェメシュの住民のように、与えられた恵みの重大さを受け止める事を忘れてはならないのですね。


祈り

 このようにデボーションをもって、主のみことばを学ぶ機会が与えられた事を心から感謝いたします。神は愛ですが、同時に義なるお方です。義なる神を畏れ敬いながら、愛なる神の恵みを感謝する者になりますように、主のみことばを毎日、食べ、私たちの霊が成長するように心がけましょう。アーメン

文: 森 宗孝


『神の箱』 


 ペリシテ人たちによって奪われた神の箱はアシュドデ、ガテ、エクロンと言ったペリシテの都市を移動しました。アシュドデで主は、偶像を打ち、それを礼拝していた人たちを腫物で打たれました。ガテでは大恐慌を引き起こし、多くの住民を腫物で打ちました。エクロンでも同じように大恐慌を引き起こし、民を腫物で打ちました。


 これら一連の出来事から、イスラエルの神は偶像の神々にまさる偉大なお方であることを学びます。神はご自身で大いなるわざを為し、ご自身の力と権威を証明されました。偶像は人間に守られる存在ですが、神はご自身で働かれ、それを遮るものは何もないのです。「わたしはある、という者である」(出3:14)というみことばが心に響きます。私が信じている神は自立自存の神であり、被造物のような始まりを持たず、永遠に存在しておられるお方でした。


 そのような神を信じて信仰生活を送っているはずなのですが、時にその神を差し置いて、自分のような者が神に代わって問題を解決しようと行動してしまう時があります。仕事でも家庭でも教会でも、問題を見つけたら何とかしようとしてしまいます。それはまるで、自分が神のごとく振舞っている姿であったと、この章を読んで気づかされました。神は私の助けなど必要のないお方なのに、です。


 ごく最近、私はYouTubeで自らを牧師、ではなく牧仕と名乗る方の動画を見ました。それはある教会の牧師を名指しで批判している動画でした。内容は、牧師を先生と呼ぶことに対して肯定的であった牧師に対する批判の動画でした。5千人以上の人がその動画を見ており、コメント欄には牧師を先生と呼ぶことに肯定した牧師への罵倒であふれていました。さらにそのコメントを書いた人たちの多くがクリスチャンであったことに驚き、同時に悲しみも覚えました。


 私はこの牧仕を名乗る方の働きを懸念しました。これはいけない、と思ったのです。私はネットを利用して彼が以前通っていた教会を探し当てました。そしてその教会の牧師に、彼について連絡をしようか、どうしようかと考えていたとき、次のみことばが与えられました。


『人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりです。しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。』(ピリピ1:15‐18)


 牧仕を名乗る方が配信する動画は聖書的ではありませんでした。しかし、見せかけであれ、彼はキリストを伝えていました。その動画によって迷惑を被る方もおられるでしょうし、私のように心配する人もいるでしょう。しかしパウロは「それが何だというのでしょう」と言いました。動機はなんであれ、キリストについて語られているなら、それを喜ぶというパウロの信仰に「主を恐れることは知識の初め」(箴言1:7抜粋)というみことばを思い出しました。


 サムエル記5章は、神を差し置いて問題を解決しようとする私に、神の偉大さについて分かりやすく示してくださいました。自信過剰であった信仰を悔い改めます。主に赦され、愛されてここに居ることに感謝する信仰生活を大切にしたいと思いました。



祈り:愛する天のお父さま。神の箱が移動したその先々で、あなたは大いなるみわざを為されました。あなたは、私たちの弁護などなくても、ご自身でその力と権威を証明することのできるお方です。状況がどんなに悲観的であっても、神の支配は揺るがないことを覚えて、主をほめたたえたいと思います。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 文:アイゾン直子


参照:Clay「第一サムエル記」


『栄光はイスラエルから去った』


 ペリシテ人と戦ったイスラエルは約4千人が戦場で打ち殺された。そして、イスラエルの長老たちは、主がイスラエル人を打たれたことに対して疑問をもって、主の契約の箱を陣営に持ってくれば自分たちを敵の手から救ってくれると思って、そのような運びをしたのである。だが、それは実にむなしいことで、ペリシテ人に勝利するどころかイスラエルの歩兵三万人が倒れたのである。神の箱が奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだのである。神の箱を戦場に持ってきてもそれに神の霊がやどらなければただの箱になっていくということです。


 戦場から逃げてきた男に事の次第を聞いたエリは椅子からあお向けになって倒れ、首を折って死んでしまいました。年寄りで、からだが重かったからである。二人の息子たちの裁きは、3章の12〜14節で、主がサムエルに三度目に来られて語られたことをエリも知っていたからそれほどの驚きはなかったと思います。だが、一番のショックは、やはり神の箱が奪われたことだったのではないかと思わされました。


 エリは四十年間イスラエルをさばいてきたが彼の最後は悲しいものでした。それは、彼が二人の息子たちの悪を知っていながら彼らへの教えを怠ったためにおこった悲劇だったのです。しかし、そのなかでも希望は二人の息子たちの教えには失敗したが、サムエルという後継者を立派に育てたことであったのです。


 そして、ピネハスの妻も、神の箱が奪われて、しゅうとと夫が死んだということを聞いて、陣痛がおこり男の子を出産したのである。その喜びもどこにいったのか気にも留めずに「栄光がイスラエルから去った」と二度も叫んだのであった。しかも生まれた子供の名前を、イ・カボデとつけたのである。それは、「神の栄光は失った」という意味です。愛する子供にこのような名前をつけることをするほどに、神の箱は、彼らにとってとても大切だったのです。余談でありますが、ここで「ヤベツ」の名前が思い出された。「ヤベツ」の名前は、彼の母が悲しみのうちに彼を産んだという意味である。


 愛する天の父なる神さま。今日のみことばを心から感謝します。神の箱でも主の霊に満たされなかったらただの箱です。私たちの教会生活でも同じことです。誰にでも悪がある人には勇気をもって、主に祈り伝えることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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