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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 特に13節から35節の「エマオへの途上」が心にとまります。

 エマオという、おそらく二人の弟子の実家である村に向かっているのです。エルサレムに背を向けて、夕方の日没に向かって、暗い顔をして歩く二人の心は、イエスを失った失望、混乱、虚しさで一杯だったでしょう。

 彼らのエマオへの途上は、主の復活を信じてエルサレムにとどまる事が出来ないという、まさに不信仰への途上です。その一歩一歩は、不信仰の歩みであり、神から離れて行く一歩なのです。


 その途上にある二人の所にイエスが来られるのです。しかし、二人はイエスだと気づかないのです。これも一つの悲劇です。イエスがいないのではい、隣にいるのです。いることに気づかないのです。

 まさか復活があるなど考える余地もなく、イエスはここにいるはずはないという先入観が、私たちの目を曇らせるのです。


 しかし、ここで驚くのは、そんな弟子たちと共にイエスはエマオへの途上を歩かれるのです。イエスに気づかない者たちと共に、不信仰への途上を共に歩まれるのです。本来の正しい方向ではない、間違った方向への道なのです。にも関わらず、その道を共に歩まれるのです。これがイエスさまなのです。

 イエスさまは、私たちの信仰の道はもちろんのこと、しかし不信仰の道、間違った方向に向かう道でさえも、共に歩んでくださるお方なのです。


 そしてある時(パンが裂かれたとき、それは聖餐式、主の十字架を意味している)、イエスに気づくのです。

 その時、弟子たちは、今度は、エルサレムに向かって歩み始めるのです。夜明けに向かって、明るい顔をして、復活のメッセージを携えていくのです。

 同じ道です。しかしエマオへの途上から、エルサレムの途上へと、方向が変わったのです。

 私たちの人生の道は、エマオへの途上にあるのか、神の都エルサレムへの途上にあるのか、同じ道でも、向かう方向でまったく違った風景になります。

 イエスさまを信じて救われても、いつもと同じ日常生活がそこにあります。その意味では道は変わりません。しかし向かう方向が変わることで、同じ道とは思えないほどに、まったく違った人生の風景が見えてきます。


 天の父なる神さま

 私たちの人生の道に、たとえそれが間違った方向であったとしても、その道にも主が共にいてくださることを感謝します。しかし、あなたがいてくださると分かるとき、私たちの人生の風景が変わります。

 どうか、私たちがあなたの臨在に気づくことができますように。そしてエルサレムへの途上に進むことができますように導きを与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


『あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます』


 主イエスと一緒に十字架につけられた二人の犯罪人、一人はイエスを罵り、「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを救え」と言った。救い主である事を証明してみせろと言うのである。今の世に住む、自分の姉も、聖書は素晴らしい文学書と言っている、つまり作り話であると思っている人が多い。イエス・キリストが救い主、それならば証明して見せたら信じると言うのである。


 群衆も嘲って、他人は救ったが、自分は救えないとののしった。マタイ27章には、イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。とあるので、この強盗たちは、十字架に打ちつけられる初めの頃には、二人とも、イエスを嘲っていた様子が描かれている。


 一体全体、なぜ一人の犯罪人は嘲る者から主イエスを信じる者へと変わったのか。それは主イエスの祈りを十字架の上で聴いたからだと確信する。


34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。


 一説によると、この言葉は繰り返し語られた文法用語であると説明されていましたが、自分も主イエスが繰り返し、祈っていたと思います。十字架に兵士たちによって釘打たれる時も、吊り上げられた時にも、群衆が嘲っている時も繰り返された。ローマ兵たちは上官の命令に従って動いている、その中に自分も居たのです、思えば、会社員であった時には、上の命令を何も考えずに忠実に守っていた。それこそ兵隊の様だった。そして、群衆の中にいる自分、もし自分があの時、初めて見る十字架のイエスに対してどう思ったか、それは何かきっと悪い事をしたために刑罰にかかっていると思った事であろう。また祭司の中にも自分がいた、働く事が自分の役目と生涯かけて信じていることに相反する者が出てきた時には、その相手を攻撃した経験もある。そのような者たちを、お赦し下さいと祈っているイエスの祈りの言葉を、直接聴いたのは、同じ十字架に架かっている犯罪人や十字架の二人、そばにいた者たちであったに違いない。


 同じように、イエスの祈りを聞いていても、二人の犯罪人のように、信じる者と嘲る者とに別れてしまう。主イエスの前には、信じるか信じないかの選択以外の立場は無いのだ。信じた者は、心が洗われて、43節「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」救いのみことばを受けるのです。


 また、十字架の主イエスの気持ちを思いました。やっと3年半ほど費やし、弟子達を育ててきましたが、彼らは自分を見放したように、羊の牧者が打たれたためにバラバラになったようですし、救いに来た目的である、聖なるユダヤの民は、救われずに逆に自分を十字架に押しやりました。父なる神はというと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」イエスは孤立無援で死に向かおうとしていた、孤立無援のその時に、隣の十字架の犯罪人が、ただ一人主を信じたのでした。主イエスは、本当に嬉しかっただろうと思います。これも父なる神が十字架の我が子に送った愛の印だったのでしょうか。全ての人の罪を受けるという重責を果たす覚悟はできていても、誰一人として味方がいない中で、一人の救われた者に光が当てられたのです。やがて信じる者たちが続々と出て来る事が確信された場面のように思うのです。


祈り

 十字架の言葉が自分が救われた言葉でした。信じる者と心を変えてくださった事に感謝しております。どうか救われた者として日々、成長する事ができますように導き続けて下さい。

アーメン 

文:森 宗孝


『わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』 


 過ぎ越しの祭りが近づき、イエスはペテロとヨハネに過ぎ越しの食事のための場所を用意するよう言われました。弟子たちがどこに用意しましょうかと尋ねると、水がめを運んでいる人が入って行く家の二階の大広間、とイエスは言われました。早速弟子たちが町に行ってみると、イエスの言われた通りになりました。


 私はこの箇所を読むとき、いつも疑問を感じていました。水がめを運んでいる人など、町にはたくさんいるだろうに、そんな中からイエスが指定するその人をどうやって見つけたのだろう、という疑問でした。

 これを解釈するには、当時の生活状況を知る必要がありました。当時、水がめに水を入れて運ぶのは女の仕事だったそうです。男は皮袋に水を入れて運んだそうです。つまり、水がめを運んでいる男がいたなら目立って、一目瞭然だったということです。弟子たちはその男のあとをついて行き、彼が入って行った家に入ると、その家の主人によって場所はすでに用意されていました。


 ちなみに教会の伝承では、この家はマルコの両親の家であったと言われているそうです。またイエスが復活して以降の集会なども、この家で行われていたと言います。その他にも、水がめを運んでいた人の水は、イエスが弟子の足を洗う時のための水であったという考えもあり、聖書にそのような記述があるわけではありませんが、そのような伝承を知ることで、当時の風景を想像し、聖書をより一層、身近に感じることが出来ると思います。


 過越しの食事は、イエスと弟子たちにとって最後の晩餐です。その食事の中でイエスは、パンとぶどう酒をもって弟子たちと新しい契約を結び、そして彼らに真の謙遜とは何かを教えられました。そしてペテロには、彼の信仰が主から離れることを伝えられました。ペテロはイエスのことばに反抗しましたが、イエスは彼が自信過剰になっていたことをご存じでした。そしてそれゆえに、彼が自身の信仰に躓くこともご存じでした。


『シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』(22:31‐32)


『しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』というみことばは、そのまま私に与えられたみことばでした。主を信じますと告白、洗礼を受け、奉仕に携わり、クリスチャンを名乗ってはいましたが、その心は相変わらず空虚で、何も変わらなくて、周りの兄弟姉妹が十字架のメッセージに涙したり、イエスの愛に感動したりする様を見ながら、どこか疎外感を感じる信仰生活を10年以上も送っていました。赦されたのだから、それでいいと考えていました。


 クリスチャンのようなクリスチャンでない生活を続ける中、体調を崩すようになって、教会に行く気さえ起こらなくなりました。激しい耳鳴りや倦怠感に襲われる中、なぜかみことばに対する激しい飢え渇きを覚えた私は、牧師のメッセージを聞きあさり、それでも足りなかった私は、次にハーベストタイムの中川牧師による学びのメッセージを聞き始めました。


 中川牧師は学びの中で「あなたは救われていますか?」と質問されました。私は心の中で「救われてます」と答えました。さらに先生は「どうして、救われていると言えますか?」「その理由は?」と訊かれ、私は「洗礼受けたし」と思っていると、「洗礼を受けたから救われたわけではないですよ」と言われました。焦った私はこの後、先生のメッセージを聞き続けました。


 この後私は、中川先生が開講されている聖書塾を受講したのですが、それによってやっと自分の信仰に確信が持てるようになりました。何といっても聖書を理解して読むことが出来るようになったことは一番の喜びでした。私はこの喜びを教会の姉妹たちと分かち合いたいと願い、「みことばを学ぶ会」を始めました。


『わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』


 以前の私の信仰は消えかかっているろうそくの灯のように小さくて、強風に耐えることなど出来ないものでした。しかし主が、私の信仰がなくならないように祈っていてくださっていたから、今があるんだと分かった時、嬉しくて涙が出ました。そして立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい、と言われる主のみこころに応答するように、聖書を学ぶクラスを始めました。これからもこの学びが祝福していただけるよう、心をこめて学びを続けていきたいと思います。


祈り:愛する天のお父さま。私のような、取るに足りない者の信仰でさえ、なくならないようにと祈っていてくださり、本当に感謝いたします。私のような迷子のクリスチャンがたくさんおられるのではと思います。どうか、そのような方々が集ってくださる学び会として用いていただけますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


 文:アイゾン直子


参照:ハーベストタイム「ルカの福音書」



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