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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」―6節、13節(抜粋)―


 歴代誌第一18章で二度(6節、13節)も強調するかのような御言葉、主がダビデに勝利を与えられたことに目がとまった。主の愛がこれほどまでにダビデに注がれていたことを感ぜずにはおられません。


 この戦いで、ダビデの行動に目をむけると、ツォバの王ハダドエゼルを討った時に奪ったものは戦車一千、騎兵七千、歩兵二万だった。ダビデは、そのすべての戦車の馬の足の筋を切った。昔、初めてそこの箇所を読んだ時に、なんとかわいそうなことをするのだろうかと思ったことがある。文脈を読むことを知らなかったからである。戦車の馬の筋を切るとはどういうことかと言うと、ある解説者によると馬により頼むのではなく、主により頼むということだそうです。とても大事なことではないでしょうか。戦場において馬は不可欠なもののはずです。しかし、ダビデはあえて馬よりも主を優先にしたことが主の目にふれたことだと思います。


 そして、奪い取った戦利品も主のために聖別したのです。つまり主に栄光を帰したことだったのです。


 さらに、ダビデは潔癖な家来を用いた点から、さばきと正義を行ったのである。だから、主は6節と13節で二度も繰り返されているように、主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられたのです。


 勝って兜の緒を締めよということわざが浮かんできましたが、勝ち抜いていても油断せずに耐えず、主に祈り、主により頼むことを忘れてはいけないということにつながっていくことが示されました。


 愛す天の父なる神さま。何かに勝利したときについあなたの栄光を帰すことをスルーすることがある弱い私です。このような弱い私でもあなたは愛してくださって、私を待っておられることに感謝します。日々、御言葉にとどまり、すべてをゆだねて、祈っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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「今、わたしはあなたに告げる。主があなたのために一つの家を建てる、と。」(10)


 ダビデに対する主の約束です。ダビデは自分は贅沢な家(杉材の家)に住んでいるのに、神の箱(神の臨在)は、天幕の中にあることを良しとせず、神のための住まいを造ると進言しました。しかし神は、「わたしは、イスラエルを連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、天幕から天幕に、幕屋から幕屋に移ってきたのだ。」(5)と答えました。そして、逆に神がダビデのために家を建てると言われたのです。


 神は、なぜ一つの場所におられないで、「移って」いくのでしょうか。やがてソロモンの神殿が建立され、そこは主の臨在で満ち、主の住まいとなったのです。しかし、その神殿はやがて権力によって腐敗し、イエスの時代には金儲けの道具とされていました。それゆえ主は、あえて昔も今もほとんどの時代、特定の場所に留まることをされずに、常に「移動」するのです。


 それは、私たちが移動するからです。主は、私たちが行くところどこででも共にいてくださるために、常に移動してくださる方なのです。私たちの方から主のもとに行く事も大切な姿勢です。しかしそれより先に、主の方から私たちの方に来てくださるのです。


天の父なる神さま


 あなたは、あえて特定の場所に留まらずに、移動してくださるお方です。私たちの行く所どこにでも共にいてくださるためであることを感謝します。今日も、主が私たちと共に、この人生の旅路を歩んでいてくださることを感謝します。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                                文:関真士


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『主権者をほめたたえる』


 この章では、ダビデ王がエルサレムに築かれた天幕に主の契約の箱を運び入れて、すべて主がイスラエルに命じた律法に書かれている通りに、ささげものをし、主をほめたたえた様子が書かれています。少しでも神の命じた方法に反したら、もはや神に人が近づくことができない事を、ダビデは経験していました。そこで一切の礼拝も、神の命じた律法通りに行われました。それは礼拝も自分達の生活も、全ての主権が神であることを理解し、神への従順を学ぶためでした。


 主への従順とは、何かを考えさせられました。自分がまだ本当に主イエスを心から信じていなかった時には、家族と一緒に教会の日曜礼拝には行ていたものの、もしその日曜日にゴルフのコンペがあったりした時には、ゴルフ優先、友人が訪ねてきた場合も、友人中心で、恥ずかしながら礼拝は二の次でありました。そうして、ある日聞いた話に、教会の長椅子の事を英語でPewsと言うのですが、長椅子にただ座っているだけの教会員のことをPew Sitterとも比喩することを聞いて、確かに自分はそうだったと思いました。この世の主権者である主を崇めるとの意識がなかったせいです。


 私たちは、主権者を覚え、主をほめたたえ、悔い改めと感謝の祈り、賛美と主への献金を心がける事によって、主との交わりが回復するのですね。ダビデの時代には、この感謝の祈りは、いけにえを捧げる事が礼拝の中心であったと思います。自分達にとって一番大切なもの(今はお金?)を、主に捧げる事で感謝を表したのですね。狩に行って奪ってきた野生の動物を捧げる事は赦されていません。自分で大切に育て、自分の財産として、いやそれ以上に子供のように可愛がっていた家畜の中から選ばれた捧げもの。その血を流す時に、なんと自分の罪深さが重いものかを体験によって知らされた、そのようなささげものであったと思うのです。そういえば、ささげもので思い出すのは、箱根の修養会で毎回、献金があるのですが、毎日なので500円玉を献金袋用に用意していたら、司会者が献金袋には音がするお金ではなくて、お札を入れて下さい、痛みが伴うささげものが必要なのですと言われたことを思い出します。


 8節は詩篇からの引用ですが「主に感謝し、御名を呼び求めよ」と始まり15節「心に留めよ。主の契約をとこしえに」と続き 23節「全地よsd、主に歌え」36節「ほむべきかな、イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。」こうしてダビデはアサフとその兄弟たちの毎日の日課として礼拝賛美をもって、主に仕えさせたとありますから、ここに聖歌隊の始まりが記されているのかもしれません。


祈り


 私が、日々の営みの中で、主を常に感謝して、崇める心を持ちますように。往々にして自分の事を優先させてしまう自分をお赦し下さい。 すでに赦されているとはいえ、道を外れてしまう自分を元の道に引き続き歩む事ができますように アーメン 

文:森 宗孝 



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