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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『契約の箱がエルサレムへ』


 ダビデによって契約の箱がエルサレムに運び込まれる時に、箱を担ぐレビ人、歌い手たち、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らして、琴と竪琴を響かせて喜びの歓声をあげている前で、ダビデが飛び跳ねて喜び踊っている、これは映画にも出てくるシーンです。 その姿を宮殿の窓から見下ろしている妻、サウル王の娘ミカルは、心の中で彼を蔑んだとあります。


 ダビデは単に主の信望者であったばかりではなく、大変な政治家でもありました。神に仕える事を第一としながらも、策士でもあった事を忘れてはいけません。エルサレムに天幕とそして契約の箱を運び入れる事は、もちろん主の目に叶った事でした。アブラハムがイサクを捧げようとした地でもあります。しかし同時に、このエルサレムは12部族の土地の中心地でもあります。12部族をまとめるには、共通の宗教的に中心となる場所が必要だったのです。 しかし、自分のユダ族の土地に中心に置くことは賢明ではありません。ユダ族に近く、ベニアミン族の土地、要害の地でもあり、12部族が礼拝に来るべき場所として、このエルサレムが選ばれたと思います。神の目に叶い、しかも政治的な中心地をダビデは周到に選んだのだと思います。


 ダビデの周到さは、妻のミカルに対しても政治的に利用したと思われるのです。確かに若かったサウル王の娘ミカルは、ダビデを好きになって助けたりしたのですが、サウル王とダビデが仲違いしていた時に、サムエル記第一25章44節「サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えていた。」とあります。その後の記述で、この2度目の結婚は、彼女にとってきっと幸せだったろう思います。パルティは心からミカルを愛していたようです(サムエル記第二3章15節 彼女の夫(パルティ)は泣きながら、彼女の後を追ってバフリムまで北が、アブネルが「行け、帰れ」と言ったので、彼は帰った」)しかし、ダビデが王として返り咲いた時に、サウル王の娘を妻とする政治的必要があったのです。すでに別にも妻がいたダビデは、ミカルをもう一度、その結婚から別れさせて、妻として奪い返したのです。ダビデはサウル王の継続者として見られる必要があったのです。きっとそのようなダビデの心の中を知った妻のミカルは、心の中で彼を蔑んだとしても、彼女の生い立ちを考えると同情さえしてしまいます。決してミカルは悪妻であったとは思えないのです。どうでしょうか。昔は好きであったとはいえ、その後の幸せな結婚生活を引き裂かれて、昔の恋人とまた一緒になる、複雑な心持ちだっただろうと想像するのです。


 ダビデが究極的に、部下の妻である、バテ・シェバと浮気をする事になったのも、妻のミカルが心の中で蔑んでいることを感じ取って、他の女性に目を向けてしまう。そのような心情があったのかもしれません。聖書の物語が深いのは、それぞれの立場になって考えてみると同じ場面でも、全く異なった解釈となってゆく、奥行きが深いことに改めて感心させられました。


祈り

 主よ たとえダビデ王のように主の僕として仕えた者でも、人間的な弱さを持っていた事を思いおこされます。しかし、どんな弱さを持つ者であれ、主が常に私たちの名前を覚えておられ、声をかけてくださっていることに感謝致します。アーメン 

文:森 宗孝


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『主のみこころを知ること』


 14章では、ダビデが主に伺いながら物事を進めていく様子が述べられています。


 ツロの王ヒラムはダビデの王宮を建てるための木材や大工、石工などを送った。ダビデはその背後に主の御手が動いていることを覚えた。それは、主が主の民イスラエルのために、ダビデの王権を堅く立てようとされていることを確認することができたのである。ダビデ自身のためではなく、あくまでも主役は、主の民イスラエルのためだったのです。そのようなことを悟ることができたダビデはすごい、さすがだと思わされました。


 また、ダビデには多くの妻と子供たちが与えられました。すべて主の祝福です。しかし、多くあたえられたからすべてよしとは限らないです。子供たちの間で、王位継承をめぐっての醜い争いはサムエル記で学びました。 主に祈り、主の支えがなければ、すべてが虚しいものとなっていくのではないでしょうか。


 ペリシテ人がダビデを狙って、エルサレムの西にあるレファイムの谷間を襲った。そのときダビデは神に伺った。そして、神の指示に従い、ペリシテ人と戦い勝利を収めました。ペリシテ人は、再びその谷間に侵入してきたので、ダビデはこのときもまた、神に伺いました。そして、前のように、主の指示に従ったので勝利を収めたのである。


 14章では、このような三つの出来事が起こったことが記されています。 この出来事に勝利できたのは、ダビデ王が主に伺い、主のみこころに従ったからできたのです。 私たちにも言えることです。今、教会で直面している大きな問題についてそれぞれの意見を述べてきましたが、最終的には、教会員みんなで深く祈り、主の御心に触れさせていただくことによって、主の御計画を知ることができるのではないでしょうか。 



 愛する天の父なる神さま。今日の聖書の箇所を通して、あなたのみこころに触れていくことがいかに大事なことであるかを教えて下さってありがとうございます。大小の問題にかかわりなく、私たちはどんなことがあっても耐えず祈り続けていくことができますように導いてください。あなたのみこころがどこにあるのかを知ることができますように示してください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


 ダビデ王ほど神様を畏れ敬い、賛美した王はいなかっただろうと思う。そして、9節から11節で起こった事件に恐れおののく。さあ、見てみよう。


8節 ダビデと全イスラエルは、歌、竪琴、琴、タンバリン、シンバル、ラッパをもって、神の前で力の限り喜び踊った。


9節 彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押さえた。牛がよろめいたからである。


10節 すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱の上に伸ばしたからである。彼はその場で、神の前で死んだ。


11節 ダビデの心は激した。主がウザに対して怒りを発せられたからである。その場所は今日までペレツ・ウザ(ウザに対する憤激)と呼ばれている。


 なぜウザはここで打たれなければならなかったのだろう、と疑問に思った。誰でも落ちそうな箱に咄嗟に対処しないだろうか?

 調べてみると、聖書には「牛がよろめいた」と書いてある。だが、箱が落ちそうだ、とか落ちるとかは書かれていない。ウザは、神の面目を保つためには自分が介入しなければならないと考えた。これは、神の前における傲慢であり、神の命令よりも自分の判断を優先させる姿勢である。との説明があり納得。しかも、ただの箱ではなく神の臨在をあらわす契約の箱である。この聖なる箱は、人が触れてはならないとの神の命令がある。(IIサム4:15)

 これは自分がウザでもやっていただろうな、と猛省した。考えてみると今までも、知ってか知らずか自分の判断を優先させた行動にいくつか覚えがある。

 神の計画は人間の考えや感覚では測りし得ない。知識として分かっていても行動が伴わない。それが日常茶飯事の私である。


天の父なる神様、

 あなたの教えに従順で、御教え通りに行動できるよう私を練って下さい。ともすれば、寄り道して罪をおかす弱い人間です。どうか日々迷わないよう導いて下さい。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン




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