top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下
hccnichigo

 歴代誌1の11章、12章を読むと、ダビデ王国が成功したのは、ダビデの偉大な能力と優秀な人材に囲まれていたことが理由という風に見えますが、そうではなく、御霊の働きによるものだということが教えられます。


 12章の中にあるダビデに加勢した多くの勇士や多くの人々のリストは、ダビデがサウルに迫害を受けていた期間にダビデに投降してきた者たち(8~18)のリストと、ダビデがヘブロンにおいてイスラエルを統治していた時代(1~7、19~22)に集まってきた者たちのリストとから成り立っています。


 ではこれら多くの勇士や人々がダビデのもとに集まったのは、ダビデの人間的な策略によってなのか、またはミケランジェロのあの有名なダビデの彫刻像に顕わされているようなダビデの英雄的存在に惹かれてなのか、または彼らは自分たちそれぞれの人間的な判断によってなのかと思わされます。しかしそうではなく、聖霊のお導きによって集められた人々であることに注目させられます。


 ある時、ダビデが多くの人々の前で語っていた時、「御霊が補佐官の長アマサイを捕えて」ダビデに語りました。「。。。。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。」と。(18)これは一つの例で、アマサイだけでなく、聖霊が多くの人々の心に働いて、神の御計画を実現するようダビデのもとに導かれたことだと思わされます。


 そして「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとにきて、ついに神の陣営のような大陣営になった。」(22)と書かれています。⦅ちなみに24~37節にリストされている人々の数を簡単に計算してみると約520,000人です。オアフ島の人口(2021年現在で約995,000)の半分以上です。当時としては大変な数ではないでしょうか。⦆


 そして、この章の後半23~27節では、サウルの支配をダビデに回そうと、ヘブロンにいるダビデのもとに来た武装した者たちをリストします。その記述は「主のことばのとおり」(23)で始まります。彼らが集められたのは即ち神の御計画だったのです。


 更にヘブロンに来たこれらの戦士たちもイスラエルの残りの者たちもまた、心を一つにしてダビデを王にしたと記述されています。ここで注目させられるのは「心を一つにして」(38)ということばです。もう一つはこの章の最後のことば「イスラエルに喜びがあったからである。」(40)


 この二つのことばは使徒の働きの中にある聖霊によって集められた人々からなる初代教会を思い起こさせられます。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2章:46-47)



愛する天のお父様、私たちも、ダビデのもとに寄せられた多くの勇士や人々のように、聖霊によってイエス様のもとに、教会に引き寄せられたことを感謝します。彼らと同じように、あなたの御計画が成就するよう、聖霊によって私たちをも大いにお用いください。アーメン


hccnichigo

「三人はペリシテ人の陣営を突き破って、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、」―18節―


「こう言った。『そんなことをするなど、私の神の御前に、絶対にできない。いのちをかけて行った人たちの血を、どうして飲めるだろうか。彼らは、いのちをかけてこれを運んで来てくれたのだ。』彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士は、そのようなことまでしたのである。」―19節―


 11章はダビデが正式にイスラエルの王になったいきさつと、その後の彼の活躍が記されている。ダビデが大いなる者となれたのは、万軍の主が彼とともにおられたからであると9節で語られています。同時にダビデを支えた三勇士のかしらたちが与えられたのもすべて神の摂理だったのでしょう。


 この三勇士のかしらたちの働きとダビデの行動に目が留まりました。この三勇士のかしらたちとは、ヤショブアム、エルアザル、シャマという名の者達です。彼らは、ダビデがベツレヘムの井戸の水を飲みたいことを聞いて、ダビデに強制されて水汲みに行ったのではなく彼ら自身が率先して、自分たちの危険をも顧みず、ペリシテ人の陣営を突き破って行動にでたのである。このような彼らの行動は主君への忠誠心と愛からでたものであったと思います。


 その彼らの主君への忠誠心と愛の行動をダビデは決して無駄にはしていません。そのことが、18節と19節で述べられています。彼らが死をも恐れずに汲んで来た水は、いのちをかけて行った人たちの血とよんでいます。それこそ、主のまえに注ぐことに値するものだと言って尊い用いかたをしたのです。彼らこそ主に献身的行為の現れであったのをダビデは読み取ったことだったのではないでしょうか。


 勇士達が主君ダビデを思った行動、又、ダビデが勇士達に対する尊い用い方はすべて信仰と愛からでたものであることが示されました。私たちも教会内でそのような信仰と愛を持ち続けていくことが大切なことではないでしょうか。これこそイエス・キリストの十字架の愛であります。



 ハレルヤ。主の御名をほめたたえます。三人の勇士達が主君ダビデに対して取った行動、そして、ダビデが勇士達にとった尊い用い方にキリストの十字架の愛が伝わってきました。いつも信仰と愛に飢え渇きを持ち続けて、主なる神に信頼していくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



hccnichigo

 聖書通読の難所を通り抜けたようですが、次の11章には、ダビデの勇士たちの名前が記されています。系図にしても勇士にしても、聖書は個人の名前を記します。名前とはその人の存在を意味します。名前が消されるということは、その存在がなくなることです。神は「名前を呼ぶ神」です。それは、私たち一人ひとりの存在の確かさを現わします。現代において、自分の存在を確立できない、存在の浮遊感を感じている方が大勢います。その属する集団から名前が消されないように必死に頑張っています。教会の原語のエクレシアとは「名前を呼ばれた者たちの集まり」という意味です。さらに私たちの名前は命の書に記されています。今日も、神に名前を覚えられ、呼ばれている自分であることを知りたいと思います。


 10章には、サウル王の死が記されています。彼は「主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ」(13)のです。今の私たちはイエスさまの十字架のゆえに、このように裁かれることはありませんが、罪が罪であることには変わりありません。神の罪に対する裁きが軽くなったのではありません。イエスさまがその裁きをその身に受けてくださったのです。私たちは、サウルの死を通して、主を畏れることを学びたいと思います。


 そして勇士たちは、さらされたサウルと子供たちの亡骸を敵の地から奪い取り墓に葬ったという事が記されています。主を裏切るという罪を犯したサウルであっても、それを裁くのは神だけであって、人が裁いてはならないのです。神の裁きで死んだサウルであっても、人がそのサウルに石を投げることではないのです。逆に勇士たちは、その罪を犯した者を手厚く葬ったのです。


 私たちも、罪を犯した者に対して石を投げてはならず、人としての尊厳を見失ってはならないのです。  


天の父なる神さま


 サウルの死を通して、私たちは主よあなたを畏れます。しかしイエスさまの十字架のゆえに神の裁きを免れていることを感謝します。あまりのあなたの愛の大きさにひれ伏す思いです。また、私たちが罪を犯した者に石を投げることがありませんように、決して高慢になり、自分も同じ罪人であることを忘れることがないように、ただ主の恵みによって生かされていることを忘れることがないように、どうぞ守り導いてください。


 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                                文:関真士


bottom of page