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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『恐れる』


 最初に、イエス様は、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。 (4節)その後、続いて5節で、「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」と言われます。


 恐れなければならない主を一旦恐れた後には、全て恐れるには及ばないと語られています。イエス様は「人を恐れてはいけない」と言われます。小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えて下さるのです。(32節)


 天国が存在し、地獄もまた存在することを認識する肉の人間にとって、最も恐ろしいことは間違いなく「死」です。でも、私たちは幸いです。なぜなら、イエス様は十字架で死に勝利されたので、心で信じ、口で告白するなら天国に行くことが約束されています。でも、忘れてはいけないのは、永遠の御国への道が開かれただけでは終わりではなく、継続した悔い改めと主により頼む生き方をしていく必要があります。その先にあるのが主の再臨です。


 私たちは正しい恐れを持つ必要があります。それは、創造主であられる主に対する恐れです。 神様は小さなすずめの一羽も覚えておられるお方です。そして、私たちはそのすずめよりも優れたものであると言ってくださっています。恐れることはありません、あなたがたは、多くの雀より価値があるのです。(6、7節抜粋)この「恐れることはありません」とは、「恐怖におののくこと、驚きに捕らえられること」という意味です。人を見て、また、まわりの状況を見て恐れるのではなく、本来恐れるべき方を恐れ、そのお方の恵みにより頼んで行く必要があります。

 私は人を恐れていないだろうか。神に対する正しい恐れを持っているだろうか。

神様の「贖い、救い」という考えられない恵みの奇跡を受け取ったのにも関わらず、神の御言葉に従わない自分がいて、律法学者やパリサイ人になっていないだろうか。


 そして、イエス様は12章の後半で、「腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。」(35節)、「目を覚ましていなさい」(37節)、「用心していなさい」(40節)と、再臨に関して、「備えなさい」と語られています。 


 主がいつ戻って来られるかは誰にもわかりません。

「主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。」(38節)主人が戻って来るのは光の無い時、人々が眠り、まどろみ、油断する時です。そうなので、気を引き締めて、目を覚まし、再び戻って来られる主に目を向けていきましょう。


 主の祈り

 いつも私達を愛してくださるご在天の神様、あなたの測り知れない恵みに感謝します。あなたはすべてのものを創造され、人を特別に造られ、私達を特別に愛してくださっていることを感謝します。その道を主と共に歩まないなら、救いは中途半端です。 聖霊様、弱い私を助けてください。いつか私達を迎えに来られる最愛のイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。 アーメン。



「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。」29節(抜粋)


「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」30節


 イエスさまは「しるし」を求めてはいけないことを述べられています。それは見返りを求めて、傲慢になるからです。私たちの「しるし」はすでにイエスさまが聖書の中でおこなわれた、人々の病いからの癒し、悪霊からの救い等々すべてで示されておられます。


 これらの御言葉は自分の信仰が問われるところであり、そして、もっとより深く神と関わるための大切なものであることが示されました。しかし、私たちが人生の苦難のなかにいる時には、つい「しるし」をみせてくださいと祈ることが多々にあります。そのような時にはどうすればいいのかが28節の御言葉でしめされました。


「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれをまもる人たちです。」28節


 さらにイエスさまは、32節で述べられています。

「二ネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」32節(抜粋)

 イエスさまは、ヨナやソロモンよりもまさったものであり、ご自身こそ「しるし」であると述べられています。


 イエスを信じることが「しるし」であり、それは心に平安を持ち続けることができるのであります。願わくば、「しるし」を求めない、聖書の約束の御言葉だけを信じて歩む者になれますようにと思わされました。



 愛する天の父なる神さま。「しるし」を求めない信仰生活ができますように、そのためには常に聖書の御言葉を読み、聞き、守り、日々、悔い改めていくことができますように導いてください。苦難の時に本当のイエスの「しるし」を見ることができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 この10章は、実に内容豊かな箇所ですが、「良きサマリヤ人」の譬え話に注目したいと思います。

 この譬え話は、律法の専門家からイエスに対する一つの質問から始まっています。その質問とは「先生、何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」(25)です。

 

 この質問に対してイエスは、逆質問をします。「律法には何と書いてありますか。あなたは、どう読んでいますか。」(26) このイエスからの質問に対して、彼は律法の専門家ですから、イエスに対して正解を答えます。

 そして律法学者は、自信満々に「では、わたしの隣人とは誰ですか。」(29)とイエスに質問します。それに対する答えが「良きサマリヤ人の譬え話」です。


 ここに律法学者の盲点がありました。彼にとっての隣人は同胞のユダヤ人なのです。彼にとってサマリヤ人は隣人ではないのです。つまり愛する対象からは除外しているのです。

 しかし、律法の言う「隣人」とは、サマリヤ人も含んでいることをイエスはこの譬え話を通して示したのです。

 しかも、ユダヤ人である律法学者に対して「あなたがサマリヤ人を隣人として愛しなさい。」という事ではなくて、忌み嫌っているサマリヤ人の方が、あなたを隣人として愛してたのだということなのです。律法学者の「ぎゃふん!」という声が聞こえてくるようです。

 

 私たちが隣人を愛するというとき、実は自分の方が、その隣人から愛されているということを知ることです。そうでなければ、どこか上目線から「愛してあげよう」という態度が見え隠れするものです。

 愛そうと思ったけれども、実は愛されたのは自分だった。癒してあげよう、助けてあげようと思ったけれども、実は癒され、助けられたのは自分の方だった、という事がよくあります。


 隣人を愛することは、「隣人になる」ことから始まります。隣人とは、字のごとく「隣」にいる人です。上でも下でもありません。 この譬え話を通して、本当の意味で「隣人になる」ということがどのような事なのか深く考えさせられます。

 

 天の父なる神さま

 私たちが「隣人になる」という事はどのような事なのか、もっと深く知ることができますように。自分を愛するように隣人を愛するということの意味をもっと深く教えてください。そして、その愛に生きることが出来る私たちとしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:関真士


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