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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『神殿に戻る者たち』


 ここはバビロン捕囚からエルサレムに戻って神殿で奉仕をする者たちとなります。バビロン捕囚がどのようにして始まり、終わったかはの内容には触れずに、祭司としての見方、肝心な神の天幕ではどのような事が起こったのかを描写している、エルサレムの神の祀られた天幕や神殿がどうなっているのかが肝心な事として描かれる、きっとこの事が歴代誌としての視点なのでしょう。


 捕囚から戻ってきたのは、12部族全員ではなくてユダ族、ベニヤミン族、エフライムおよびマナセ族が始めで、それほど多い人数では無かったのが分かります。バビロンは大きな商業都市ですから、そこに根を下ろしてしまったユダヤ人もいたのでしょうか。この章では、すでにエルサレムは、ダビデ(22節)の時代に入っているようにも読めます。まだ神殿は無かったものの天幕が完成していたのでしょう。そこでのレビ族の担当の仕事が列挙されています。祭司職意外に、宿営の門衛、天幕には入り口が一つしかありません、そこを守る者、宝物倉を管理したり、香料を調合する担当、菓子作りの務め、そして賛美と音楽の担当、この歌い手はレビ人の一族のかしらであり、昼と夜となくその務めをしていたとあります。やはり昔から、賛美をもって主を礼拝していた姿がここにあります。


 岩手県山田町におりました時に「いっぽいっぽ」というクリスチャン団体の経営するカフェを手伝っていました。その頃まだ仮設住宅に住んでおられる方が多く、中には1日に2度、3度来られて、おしゃべりする場として利用されていました。津波に襲われた時の経験を、同じ経験をした町内の人とはかえって話しずらい、彼らが失った家族の事を知っているためのようでした。しかし、部外者である私たちには、その時の経験を良くコーヒー飲みながら話してくれました。このカフェを開ける時に讃美歌を歌ってから店を開けるのですが、ある時早く来られた方が座って賛美を聞いてから、「クリスチャンは良いな、たくさんの賛美がある」と言ってくれた方は、実はこの町のお寺のお坊さんだったんです。本当にクリスチャンは昔から賛美に恵まれていますね。


 さて、バビロン捕囚でユダヤ人が徹底的に学んだのは、唯一の神であるヤーウェイへの忠誠心であり、徹底的に偶像礼拝から離れる事を腹のそこから学び、神殿の重要性を認識した事では無かったかと思うのです。ユダヤの民は、このバビロン捕囚以降、偶像礼拝を徹底的に嫌うようになっています。そうして、神殿を失ってしまったユダヤの民は、昔は神殿の建てられていた土台の西壁、嘆きの壁で頭をつけて、願っているユダヤ人は、自分達の神殿をもう一度再建する事を祈っています。やがて第三神殿ができて主イエスが再臨されるというのが聖書が示すところでもあります。


祈り

 どうか私たちの賛美によって、主の栄光が満ち溢れますように。主が御顔を賛美する私たちに向けて愛を注いで下さいますように。主が喜んで下さいますように。 アーメン 

文:森 宗孝


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『ベニヤミン族』


 ベニヤミンのことをいくつか並べてみます。ヤコブが一番愛していたラケルは、主に願いやっとヨセフを得ますが、次男のベニヤミンは難産で、そのために亡くなってしまいます。ラケルは死を望み、その子の名をベン・オニ(私の苦しみの子)と名付けながら、ベツレヘムへ向かう途中でなくなります。ベニヤミンとは、苦しみの子という意味だったんですね。自分の姪っ子の二人は難産で苦しみ、絶対に子供二人目は産みたくないと、子供は一人だけとなっています。産みの苦しみを横でみているだけの男には、とても理解できることではありません。幸いにも、うちの次女は安産型のようで、3番目の娘を産む時など、産む寸前まで、テレビ番組の続きをベットで見ている余裕まであったのが信じられません。そういえば、教会に女性が多いという理由の中には、このようにして自分の中から新しい命を産み出すという、経験を持たれているゆえに、聖霊によって生まれ変わるという聖書のみことばが、我々、男どもよりも、心にすんなりと受け入れられるのが原因ではないかなぁと想像しました。


 話は戻って、ベニアミンの受け継いだ土地ですが、主にエルサレム(もとはエブス)やエリコ、ベテルはベニヤミン族の土地で、その南のベツラハムからヘブロン、エジプトに近いカデシュ・バルネアまでがユダ族の広い土地です。この2部族が南ユダ王国で、残りの10部族が北イスラエル王国と分裂してゆくのです。


 さて、今度はイスラエルの覇者の歴史を長子の権利から見てみると、まずはヤコブからイサクへ、やがてレビ族のモーセへ、そしてエフラエム族のヨシュアへ移行、その後ベニアミン族のサウル王、約束されていたユダ族からダビデ、ソロモン、そうしてついに主イエスとつながっているわけですが、このベニアミン族からは、サウル王が出てきます。33節「ネルはキシュを生み、キシュはサウルを生み、サウルはヨナタン...と続きます。」サウル王は、主から選ばれた王であったにもかかわらずに、彼の後年には主の目に悪い事を行ってしまいました。


 さらにユダヤ民族をペルシャで救ったエステル記のエステルも、異邦人伝道のパウロもベニアミン族出身なのです。しかし、ベニヤミン族は激しい気性なのでしょうか、士師記20章には、全イスラエルがベニヤミンの2万5千人が倒れたとありますから、12部族がいつも団結していた訳ではありません。やがて和解して部族内での戦いはおさまりました。


祈り

私たちにとって馴染みの浅い、ベニアミン族の系図ですが、このようにしてイスラエル民族の歴史を学びながら、私たちも主が長い長い年月をかけて、救いの手を伸ばされている事を覚えて、主イエスがブドウの木として、私たちが枝として主に繋がる時に、イスラエル民族と同様に神の子となることに感謝致します。 アーメン  

文: 森 宗孝


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 歴代誌第一 7章は、六つの部族の系図が記されています。イッサカル族、ベニヤミン族、ナフタリ族、マナセ族、エフライム族、アシェル族の六つです。


 六つの部族の中でエフライム族に目が留まりました。それは、親が生まれた子供につけた名前です。歴代誌第一の4章10節にも似たような箇所がありました。母親が苦難の中で産んだ子供につけた名前が「ヤベツ」でした。その意味は、悲しみ、苦しみを意味する名前だと言われています。


 エフライムもまた、生まれた子供につけた名前が「ベリア」で、その名前の意味は、「わざわい」という意味だそうです。エフライムの2人の息子たちは、ガテ人の家畜を奪おうとしてガテ人に殺されました。エフライムは二度とこのような悪しきことをおこさないように、戒めのためにベリアという名前をつけたのではないかと解説者は述べています。


 ところが、ベリア(わざわい)の子孫からヨシュアが誕生しているのである。忌まわしい出来事を起こした子孫の中からヨシュアを起こし、彼を用いられる神の御心はその人自身が神の前にどうあるかをごらんになられて、その人を用いられるのです。父であるエフライムが二人の息子たちの執り成し、悔い改めの祈りによって主の御心に触れられたのではないでしょうか。


 ある歴史的にも有名な方の子孫があまりにも悲しい死に方をするのが思いだされました。父親、息子、兄弟、が亡くなっているのである。あるメディアによると、「呪われた・・・一家」と報じられました。そのようなことのためにも、祖先の罪の執り成しの祈り、それぞれの悔い改めの祈りが必要ではないでしょうか。今の私たちは、十字架の罪の赦しが与えられています。その十字架に祖先の罪のための執り成しの祈りができることは、最高の恵みだと思います。


 私自身も以前はベリア「わざわい」と言う名前の持ち主でした。でも、今はイエス・キリストの十字架によって完全に罪から解放された「ヨシュア」としての人生を送ることができるようになったのです。主に感謝です。



 愛する天の父なる神さま。人のために執り成しの祈りがとても大事なことを今日の聖書箇所から示されました。過去にどんな過ちをおかしても、執り成しの祈りによって主なる神は御心をみせてくださいます。どうぞ、私たちも誰かのための執り成しの祈りをすることができますように用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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