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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『変貌山の主イエス』


 三人の弟子たちの目の前で、主イエスの御姿が変わって、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。イエスは、ガリラヤ湖畔で、主に会いたいと集まった群衆、それは男だけで5千人、家族を合わせると1万数千人の群衆にパンと魚を与えてた後、8日ほどして、三人の弟子を連れて、祈るために山に登られた。この山はイスラエル北部のタボル山ではないかと言われていますが、ここで31節「栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる(EXODUS)最期について、話していたのであった。」実にこの世の全ての信じる者を、まるでエジプトからイスラエルの民を救い出した時のように、私たちを暗闇のこの世から救い出すためのご自分の十字架, 神の子羊となって出エジプトでイスラエルの民の家の門柱に子羊の血が流されて塗られたように、主の血潮が流され十字架の杭に塗られ罪の身代わりになる最期について話されたのです。


 ここでは、主イエスが弟子達の見守る中で、イエスの本来の姿、神の御姿に戻られた様子が示されているのではないでしょうか。コロサイ書1章15節には「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です」とあります。同時に主イエス自身が語られた言葉に、ヨハネ8章12節抜粋「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあるように主イエスは、この世界が茫漠として闇であった創造の時に、神の光として先に生まれた方であり、世の光です。この変貌山で、すでに亡くなっているモーセや天に上げられたエリヤと話すには、霊のお姿で、主のもともとの天上での姿に戻ってから話す必要があったのではないでしょうか。それできっと光り輝くお姿になられたのでしょう。続いて最期のことを、ルカ9章44節では「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています」救いの完成が人の手に渡される、自らの十字架と話されていたのでしょうか。


 先生でおられた主イエスが覚悟を決めながらエルサレムに向かうのとは対照的に、弟子達はまだ主を理解できていない姿が対照的です。神殿に向かう途中のサマリヤ人の村で、非協力的なサマリヤ人を見て、ヤコブとヨハネは腹を立てて54節抜粋「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言って、主イエスに叱られてしまいます。

 この世を救おうと十字架に向かう決意をされた主を理解していない弟子、私たちはどうでしょうか? 自分中心の願い事ばかり、抱える問題ばかりをぶつけていないでしょうか。


祈り

 どうか、毎日の祈りの中で自分の願いばかりでなく、主イエスの思いが理解でき、その上で私たちに求められていることを知らされますように、神に祈る事によって、自分に与えられた賜物が何か、それをどのように使うべきかの導きも祈りの中で与えられますように。

アーメン 

文:森 宗孝


『聖なる疑問』 


 主イエスの巡回伝導には12弟子、それに悪霊や病気を治してもらった多くの女性たちが一緒でした。弟子たちは、たとえ話や奇跡を体験しながら主による弟子訓練を受け、そして女性たちは、主の働きを内面から支えました。聖書は女性の扱いについての記述が少ないのですが、ルカは男性の働きだけでなく、女性の働きにも光をあてることで、神の愛は性に関係なく等しく注がれていることを教えてくれます。


 主は訓練のために12弟子を連れて巡回伝導していますが、その意味について理解していた人はいなかったようです。彼らは主を信じて従ってはいますが、その信仰はまだ幼く、主が語られるたとえ話を霊的に理解することができませんでした。たとえの意味が分からない彼らに主が、分かりやすく、解き明かしてくださる場面は感動的です。


 聖書もまた、正しく理解するためには説き明かしが必要です。それがなければ、種まきのたとえは、種は良い地に蒔きましょう、という話になるでしょう。燭台のたとえもまた、明かりは照らすために器の中に隠したり、寝台の下に置かないようにしましょう、という話になると思います。


 しかし、イエスの解き明かしによって、そこに重要な教訓が隠されていることを知ります。主は彼らに、これから訪れる教会時代の幕開けについて、そしてそれに伴う福音宣教が、聞く者の心によってその成否が問われるということを、種まきのたとえを用いて教えられました。また、一度明かされた奥義を隠してはならない、みことばの光を隠してはいけないと、燭台のたとえを用いて教えられました。


 次に弟子たちはガリラヤ湖で嵐を経験しますが、それは彼らの不信仰を明らかにしました。しかしその体験を通して「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」という疑問を起こさせました。主は彼らの心の疑問をご存じであったはずですが、それに対して叱ったり、気分を悪くしたというような記述はありません。それより、訓練途上にある弟子たちの疑問に答えるようにして、悪霊の追い出しや長血の女の癒やし、そして死者のよみがえりといった奇跡を彼らの前で行われました。


 教会のいろいろな集まりの中で「何か質問はありませんか」と問われることがありますが、皆がこぞって質問する、という風景を見たことはありません。聞いた内容を咀嚼するだけが精一杯で質問できない、ということもありますが、日本人だからなのか、疑問を抱く、ということに罪意識を感じてしまいがちです。


 しかしその疑問が、みこころにかなった聖なる疑問であるなら、ためらうことなく質問することを、主もまた望んでおられるのではないかと思いました。弟子たちの「いったいこの方はどういう方なのだろうか」という疑問に対して、主はご自分を証ししてくださいました。主を知りたい、みこころを知りたいと思うなら、心にある疑問ををうやむやにしてしまわないで、求めて、探し続けることが大事なのだと思いました。また逆に質問を受ける側に立ったなら、心を込めてその疑問に答える者でありたいと思いました。


 

祈り:愛する天のお父さま。分からないと嘆く心に寄り添ってくださり、励まし、そして間違っていたなら諭してくださること、本当にありがとうございます。人のことばではなく、これからも、みことばによってそれら疑問を汲み取っていくことができますよう、導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:ハーベストタイム「ルカの福音書」



 7章では、百人隊長が一人の死にかけているしもべのためにとったイエスへの行動と、罪深い女のとったイエスへの行動が心にとまった。


 百人隊長の6〜7節のイエスに言った言葉。


「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。」6節(抜粋)


「ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください。」7節(抜粋)


 何と謙遜さがただよう発言でしょうか。また、しもべを癒してほしいという強い思いの発言は、愛ではないでしょうか。信仰とは、この百人隊長のように謙遜で他者への思いやりであるのです。


 もう一つ心に留まったのが、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられた時に、罪深い女がとったイエスへの行動である。それは、イエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐって、イエスの足に口づけして、香油を塗ったのである。罪深い女とレッテルをはられた彼女は、恥じることも恐れずにただひたすら罪の赦しのためにとった勇気あるイエスへの行動だったと思います。彼女の泣きながらとったイエスへの行動は、赦しと愛に変えられていったのです。とても心に伝わってきました。これが罪を告白する者の姿ではないだろうかと思うところである。そして、イエスはシモンに言われた。


「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」47節



 愛する天の父なる神さま。謙遜になり又、他者を思うことほどむつかしいものはありません。私にとっての永遠の課題であります。謙遜になり他者を思う心を常に持ち続けることができますように、聖霊で満たしてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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