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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『主の憐れみ』


 この間、以前の職場の同僚が歩いているのを見て挨拶したら、翌日テキストが入っていた。

 簡単に訳すと「昨日仕事場でちょっとあって、あなたと話したいんだけどいい?」といった内容だった。今日、土曜日の午後に会う予定である。彼女は別の教会に最近行き始めてバイブル・スタディが楽しいといっていた。

 三日前に彼女の家の近くを通ったので「Nさん、Have a Blessed Day.」と書いて送ったら、「ありがとう、時々、主人も含めて誰も私のことなんか気にかけていないんじゃないかと思ってたの。」と返事が来た。


 31節の聖句が思い出された。 「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」

 前職場でも感じたことだが、人は自分以外の誰かに気にかけてほしいのだ。自分という存在をわかってほしい、愛してほしい。コロナ・ウィルスが猛威をふるっていた頃、人々は外出しなくなり、人との関わりが極限まで薄れた。一人暮らしの人は余計そう感じたかもしれない。また家族という近すぎる関係で長時間一緒にいるのも関係がギスギスしたものだ。

 また、人によって感じ方が違うので一概には言えないが、共通しているのは「自分が属する場所を見つけている」のだと感じる。例えば、仕事の仲間や家族であったり、教会の兄弟姉妹かもしれない、友人どうしかもしれないし、ジムやサークルの仲間かもしれない。だから仲間だとわかるように私は挨拶をいつもしようと決めた。知らない人でも同じコンドミニアムの人には、返事がかえってこなくても挨拶だけは笑顔でしよう。今、自分にできるのはそれぐらいしかない。


 一番私にとって難しいのは、35節の教えである。

「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」


祈り:

愛する天の父なる神様、

 憐れみ深い主の御名を賛美します。

 私たちの罪を赦し救って下さった御子イエスの教えはごもっともですが、私は自分に、知ってか知らずか、害をなそうとするものを愛せません。与え続けて自分のものが無くなってしまうと悲しくて返してくれない人を愛せません。でも、今の自分にできることをしようと思います。どうか弱い私を聖霊様を通しあなたの方向へと導いて下さい。今日のNさんとの良い交わりの時が持てますように。あなたを信じる私たち一人ひとりがあなたの教えに従順であれるように、イエス様の御名により祈ります。アーメン

文: マッカーター政子



 ルカの福音書5章27節以降から学んでみたいと思います。


 イエスがレビ(マタイ)と言う取税人に、「わたしについて来なさい」と言われた時、彼は「何もかも捨て、イエスに従った」とあります。


 ここで私たちは、イエスのことばの持つ力の大きさに驚かされると同時に、ひと声かけられただけで、すぐにイエスに従ったレビの決断にも驚かされます。その後、多くの人を招いて、イエスのために大振る舞いをしたことを見て、彼にはかなりの財産があったに違いありません。それでも「何もかも捨てて」従ったのです。


 それから続く文章から私たちはイエスは、今私たちが持っているものは捨てなくてもいいから、その上にわたしの命令を付け加えて、ついて来なさい」と言ってはおられません。今迄の生き方、考え方、習慣などすべてを捨てて、わたしについて来なさいと言っておられます。かなり厳しい命令です。


 私たち多くの人間は古い物への郷愁があり、39節にあるように、「古い物は良い」と思いがちです。それは、今までの生き方、考え方、習慣を捨てて、新しいものを受け入れるためには大きな障害となります。地球が太陽の周りを回っているのだと主張したガリレオは、それまで信じられていた考え方とは全く逆なので、世の人々から異端とみなされました。


 イエスとその弟子たちが、取税人や罪人と一緒に食事を楽しんでいるのを見たパリサイ人たちはそれを非難しました。それに対して、主は「医者を必要とするのは病人です。」そして、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」と言われました。これはパリサイ人たちに対して、あなたたちの古い考えをすべて捨てて、わたしの新しい教えを受け入れなさいとご自分の方に招いておられるのです。


 そして、もしそうしないならそれはこれからわたしが示す ”たとえ” と同じことをあなたたちはしていることになるのだよと、二つのたとえを話されました。


 イエスは、わたしの新しい生き方を受け入れようとしないのは、又はあなたたちの古い生き方を捨てないで、私の新しい生き方を部分的にだけ受け入れる者は、新しい布切れを古い着物に継ぎあてをするようなもので、古い着物を裂いてしまいます。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、その古い皮袋は張り裂けてしまうようなものですと言われました。(36~39節)


愛する天のお父様、今日のみことばに感謝します。

 私たちもあなたを私たちの人生の救い主として受け入れてから後、自分の生き方、考え方、習慣は次第に変えられてきてはいますが、主よ、レビ(マタイ)のようにすべてを捨ててあなたに従うことはできていないかも知れません。しかし、そんな私たちをも大目に見ていてくださることを感謝します。そしてこれからの人生において、もっと自分を捨て、あなたの御心に、御計画に沿って歩めるようお導き下さい。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン。


 ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスは、御霊によって荒野に導かれ、そこで40日間悪魔の試みを受けられた。ここでは、悪魔の3つの試みについて述べられている。


 神の子なら石に命じてパンになれといったり、悪魔の前にひれ伏すなら、すべての権力と栄光を得ることができるとか、そして、エルサレムの高い神殿の上から下に身を投げなさいと、試みるのである。しかし、御霊が内住するイエスはそれらの質問に見事打ち勝つのである。3つの質問の答え(人はパンだけで生きるのではない、主にのみ仕えなさい、あなたの神である主を試みてはならない。)のなかで心に示されたのが、最後の「あなたの神である主を試みてはならない。」という御言葉である。


 旧約の士師記のなかにでてきた、主を試みて大失敗をした士師のことが思いだされる。私たちは、どんなことがあっても決して主を試みてはいけないのである。主が私たちに望まれることは何であるかを先に考えるべきことである。もし~してくださるならという祈りは、神を試して、自分が神の上にたつ言い方になるのである。誰も神を試し、神の上にたつことはできないのです。私も以前にそういうことばで祈ったことがあった。でも、最近はそのような祈りから、必ず「それが、あなたの御心でありますように。」と付け加えるようにしています。


「預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません。」24節(抜粋)

「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのた

 めに遣わされたのですから。」43節(抜粋)


 この2つの御言葉にふれられた時、伝道の覚悟というものがしめされる思いがした。熱くもなく冷たくもないぬるま湯のなかに浸るようであってはいけないことであるということです。親兄弟、親戚や友人に伝道することがどれほどむずかしいかを知らされる思いです。伝道は全世界にでて神の福音を宣べ伝えていかなければなりません。関牧師のメッセージで、宣教は、教会の働きであり、又、教会という人の集まりがないとできないこと、それは、交わりのなかで聖霊に満たされることであると言われたことに心が動かされて感謝でした。



 愛する天の父なる神さま。聖霊に満たされることがどれほど大切であるかを知らされる思いでした。日々、内住される聖霊に満たされるように、常に御声に聞きいっていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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