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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 バプテスマのヨハネが宣べ伝えたのは「悔い改めのバプテスマ」(3)でした。そのメッセージに応えて多くの人がヨハネのもとへやってきました。しかしヨハネは、ただ神に立ち返ることだけではなく、立ち返った者にふさわしい生き方、すなわち実を結ぶことを求めました(8)。

 その時、群衆、取税人、兵士の3者がヨハネに対して「私たちはどうすればよいのでしょうか。」と問います(10、12、14)

 それに対するヨハネの答えは、悔い改めの実を結びなさい、ということでした。その実とは、隣人を愛することの実践でした。なぜなら隣人を愛することが、律法を守り行うことの本質だったからです。


 ヨハネは、群衆には、自分の所用物を分け与えること。取税人には、その権威を搾取に使わないこと。兵士には、その力を奪うために使わないことを伝えました。

 

 悔い改めは、反省とは違います。生き方を変えることです。自己中心というエゴに基づいて、自分の所有物に固執すること、権威や力を人を虐げ、人から奪うために使わないという生き方です。

 むしろ、分け与えることをするとき、つまり隣人を愛することをその生き方とするとき、それが悔い改めの実を結ぶということになります。


 私たちは、悔い改めるだけではなく、悔い改めの実を結ぶ者となりたいと願います。与えることの喜びのゆえに、持っている所有物、権威、力を、隣人を愛するために使っていきたいと願います。


 天の父なる神さま

 どうか、私たちが固執し、搾取し、奪うものではなく、与えられた所有物、権威、力を隣人を愛するために使うことができますように。

 悔い改めの実を豊かに結ぶ者となりますように。聖霊が助け導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士


『シメオンとアンナ』


 幼きイエスの様子を語っているのはルカの福音書だけかと思っていたが、トマスによるイエスの幼時物語という聖書外典に出会った。これは私達の聖書にも、カソリックの聖書にも含まれていない文献で、泥をこねて12羽のスズメを作り、それを飛ばしたというような記述もあるのです。しかし霊に満たされ、信頼に足りる書簡と初代教会に厳選されたのは、このルカの福音書だけで、ここに幼いイエスの本当の様子を垣間見ることができます。


 エルサレムに生後8日目に、割礼をほどこす日となった、この時点では未だ東方の博士たちは宝物を持って両親達に会いに来ていなかったようです、なぜなら、この時に両親が精一杯できる事は、貧しい者が捧げる山鳩か家鳩を捧げることしかできなかった様子なのです。


 そのような貧しい姿のマリアとヨセフに抱かれたイエスを見るなり、まずエルサレムでメシアを待ち望んできた、シメオンが幼子イエスに気がつきます。32節「異邦人を照らす啓示の光、御民イエスらえるの栄光を。」と祝福されています。果たして、私たちはその場にいたとしたら、幼子イエスに気が付いていただろうか? 


 シメオンだけでなく、老女預言者アンナもメシアである幼子イエスに気付きます。彼女の預言もまた凄い。母マリアに向かって、36節「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」この預言通りに、十字架にかけられた息子イエスの姿を見て、母マリアは心が刺し貫かれた思いがした事でしょう。シメオンもアンナも、それぞれが、この貧しい大工夫婦に抱かれている、主イエスの十字架を無意識の中で見ていたのかもしれません。それで、きっとこのような預言の言葉を伝えたのでしょう。


 自分達もエルサレムに行った時に、ちょうど成人式(バルミツバ)12歳の誕生日を祝う家族に出会いました。音楽隊を雇って、家族と親族が一緒になって、踊るようにして今は神殿がないので、嘆きの壁のところまで踊りながら祝う行事が今でも続いていました。大勢の人数で喋りながら、笑いながら、きっと主イエスの両親も練り歩いてエルサレムに行き、帰りになってイエスが居ないのに気が付いたのでしょうね。イエスは宮で教師たちに質問したりしていたとあります。イエスが知恵が増し加わり、背丈も伸びていった、主イエスの幼年時代が神殿のイメージと共に、質問を続ける幼子イエスを思い浮かべられる2章でした。


祈り

私たちの周りにも、主イエスが心から愛された多くの幼子がおります、境遇によって子供達は、その性格も形づけられて行くことになりますが、どうか貧しい生活によって、心も貧しくなりませんように、手助けを必要とされている子たちに、私たちの手を伸ばすことができますように、すべてを感謝いたします。   

文:森 宗孝


『マリアの賛歌』 


 ルカがこの福音書を書き始めた頃、イエスの公生涯を共に生きた人たちの証言をもとに、その事実をまとめようとする働きがあったようです。その試みは困難を伴ったようですが、ルカは綿密に調べることが出来、また順序立てて書き上げることが出来たと書いています。その彼の働きを経済的に支えたのがテオフィロではないかと言われています。そのため、ルカの福音書はまず彼に献上する、という形で始まっています。ルカによって、他の福音書では要約もしくは省略されている事柄について、さらに詳しく知ることが出来るようになりました。感謝です。またその彼の働きを支えたテオフィロにも感謝です。


 天使ガブリエルによるバプテスマのヨハネの父である祭司ザカリヤへのメッセージは、ザカリヤが主のみ前である神殿で奉仕しているときに伝えられました。ガブリエルは、祈りの象徴である香の祭壇の右に現れ、ザカリヤの祈りが聞かれたことを告げました。それは、彼の不妊の妻エリサベツが男の子を身ごもり、その奇跡的な子はヨハネと名付けられ、エリヤ到来の預言を成就となる、ということでした。しかしザカリヤはそのことばをすぐに信じることが出来ず、彼の不信仰な口はガブリエルによって、子供の割礼の日まできけなくなりました。


 ザカリヤとエリサベツの願いは子に恵まれることでした。ザカリヤは長年の祈りがやっと聞かれるというのに、それをすぐに信じることは出来ませんでした。長年の願いが聞かれた時の反応によって、自身の信仰が瞬時に測れるのだなと思いました。私もそうでした。ある友人のご主人が主を信じたという話を聞いたとき、「信じられない!」と叫んでいました。喜びの叫びだと言えば聞こえは良いですが、それは紛れもなく不信仰の叫びでした。主が私たちの祈りを聞いてくださっていると信じているから、私たちは祈ります。だからそのことが聞かれたなら「信じられない!」ではなく、「ハレルヤ!」と主を賛美したいと思いました。


 次に天使ガブリエルはマリアに現れ、主イエス・キリストの受胎が彼女の上に起こることを告げました。マリアは救い主の母として神からの恵みを保証され、その子の名はイエス(主は救い) 彼は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれ、主なる神は彼に父ダビデの王位を与える、と言われました。さらに、ヤコブの子孫を永遠に治め、その支配に終わりはない、と告げられました。しかしマリアは処女であったので、どのようにしてこのようなことが起こるのですかと質問しました。すると天使ガブリエルは、受胎は聖霊の働きによるものであり、それゆえ「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」と言いました。


 ザカリヤへの受胎告知より、マリアへの受胎告知のほうが受け入れ難い奇跡ですが、マリアは「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と主のみわざを信じました。マリアは、イスラエル民族が長い間祈って来た願いがようやく聞かれたことを理解したのだと思います。異邦人にとっては信じ難い出来事ですが、イエスが100%人であり、100%神であることの根拠はここにあるのです。


 神の子を宿すことになったマリアは、自分と同じように主の恵みに与った親戚のエリサベツを訪問し、「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は幸いです」との彼女のことばに応えるように、賛歌を作りました。その内容は、旧約聖書への言及や引用が含まれていることから、マリアは聖書に精通していた人であったと言われています。マリアの賛歌はラテン語で「マグニフィカート」(わが魂は主をほめたたえる)と呼ばれ、西方や東方のキリスト教会では賛美したり、降誕節には朗読されたりするそうです。


 マリアは、自分が取るに足らない者、また罪人であるにもかかわらず、ただ主の恵みによって救い主を体に宿すという召しをいただいたことに感謝し、主をほめたたえました。まさに、低き者が高く上げられた瞬間でした。しかし、時代背景を考慮するなら彼女の妊娠は律法違反であり、死刑に値しました。それでもマリアは主のみこころを優先しました。


 その姿から、マリアの信仰はまさしく聖書信仰であったと思いました。処女でありながら子を宿すという奇跡でさえ、恐れることなく受け入れることが出来たのは、聖書に精通していたからだと思いました。信仰とは、聖書のみことばによって支えられ、成長して行くのだと教えられました。「あなたのおことばどおり、この身になりますように」という信仰は、みことばを知らなければ、唱えることのできない祈りなのかもしれません。主のみこころを求めて、聖書の学びを続けて行きたいと思いました。



祈り:愛する天のお父さま。聖書の学びは奥深く、学べば学ぶほどに恵みが増していくため、学ぶのを止めることが出来なくなりました。この聖なるアディクションに感謝いたします。みことばがさらに蓄えられ、私のすることすべて、考えることすべてが、みことばに立つものと変えられますよう、これからも訓練し、導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:マラキ4:5、Got Questions、ハーベストタイム「ルカの福音書」



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