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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 使徒の働きはここで終わりです。長いパウロの伝道旅行は妨害と迫害多きものでした。その中で伝道できたことは奇跡としかいいようがないです。その奇跡をおこすことのできるお方は内住される聖霊だけです。パウロの行く先々で多くの人が救われましたが、反面、救いを拒む人もいました。パウロはその人たちに、聖霊が、預言者イザヤを通して、彼らの先祖に語られたとおりだと26節、27節の御言葉を語った。


「この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。」―26節―


「この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒すこともないように。」―27節―


 そして、パウロは、神のこの救いは異邦人に送られたと、なぜなら、異邦人は聞き従うことになるからと語りました。


 心が鈍くなるとはどういうことでしょうか。それは、霊的な飢え渇きがなくなることによって起こることだと言われています。私たちも常に内住されている聖霊によって霊的飢え渇きを持つことができるように、そして、心が鈍くならないようにしていきたいものでありたいです。


 28章の最後の31節の御言葉に目が留まりました。


「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」―31節―


 パウロが少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、大胆に神の国と主イエス・キリストを宣べ伝えることができたのは聖霊によってできたのです。聖霊の助けがなければ無に等しいものです。 



 パウロの伝道旅行を通して、私たちもこの地上にいる間に多くの人に主イエス・キリストの福音の種を蒔いていくことができますように、聖霊さま助けてください。弱い、小さき者があなたに用いてもらえる道を示してください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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 パウロは囚人としてローマに向かう途中、航海が危険であると警告します。しかし、百人隊長はパウロの言葉ではなく、船長の判断に従い、出航することを選びました。その結果、嵐に遭遇し、船は大きな危機にさらされることになりました。それでも神さまはパウロに全員の命が守られることを告げ、彼の信仰により、最終的に全員が助けられる結果となるのです。


 パウロの言葉に耳を傾けず、自分たちの判断を優先しましたが、百人隊長がパウロの言葉を受け入れていれば嵐の危険をさけられたかもしれません。私の歩みの中でも、神さまの声に耳を傾けず、自分や世の判断、そして他人の意見に従ってしまうことがあり、その結果、予期せぬことに直面したりすることがあります。


「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」25節


 パウロの信仰のように、どんな状況にあっても神のさま言葉に信頼するならば、神さまは必ず最善を尽くしてくださいます。時に失敗や誤った選択をすることがありますが、かえってその時の方が神さまの御心を知りたいと、御言葉に耳を傾けようとすることがあります。また、神さまも私たちの過ちや失敗を通しても働いてくださいます。


「こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』」24節


 神さまの導きに従わなかったとしても、最終的には約束されているように、救いの手を差し伸べてくださいます。

 常日頃から、神さまに心を開き、どんな小さなことでも神さまの声を聴く耳をもちたいと思います。



愛する天のお父さま 

 あなたが日々私たちに語りかけてくださることを感謝します。私たちが自分の判断に従うのではなく、あなたの導きに従って歩むことができるように助けてください。失敗したとしても、あなたが常に最善を尽くしてくださると信じます。どんな状況でも、あなたの救いを信頼して前に進むことができますように。イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン


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「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します。」11節


 パウロは、23章11節で主がお語りになられた、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」という御言葉をしっかりと心に据えていたのがわかります。そうでなければ、カエサルの法廷で多くの人々の前で自分の無実を大胆に語ることができないはずです。


 それにしても、人の上に立つ者達の不従順さがうかがわれます。無実の罪のイエス様の裁判の時もそうでした。あのピラトも大衆の暴動を恐れて責任逃れの態度をとりました。そして、今、やはり無実の罪のパウロも死罪に当たることは何一つしていないと言う、フェストゥスですが、彼は人の好意を得るために、26、27節で語っている彼の悪知恵が見え見えに思えます。


「ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事柄が何もありません。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王、あなたの前に、彼を引き出しました。こうして取り調べることで、何か私が書き送るべきことを得たいのです。」26節


「囚人を送るのに、訴える理由を示さないのは、道理に合わないと思うのです。」27節


 この裁判の場を通して、主なる神は何を示そうとされたのでしょうか。ただパウロの無実だけを公にされたのでしょうか。そこのところを深堀していくと、主なる神のご計画は、この裁判の場を通してもローマの支配者の中に福音を広げようとしておられることを示そうとしているということだと言われています。神は、実に人知では計り知れない、いろんな方法、いろんな人を用いられます。あなたであるかもしれません。私であるかもしれません。その時に、どれだけ福音を伝えることができるだろうかと思わされるところです。そのためにも、聖書をもっと深堀していく必要があります。


 

 天の父なる神様。私たちの周りには多くの非クリスチャンがいます。彼らに、福音を語ろうとする時に勇気が入ります。恐れもあります。どうか私たちの内にあるこれらのこと全てを取り去ってください。私たちが大胆に福音を語れるように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


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