「喜んで私自身のことを弁明いたします。」(10)
総督に前に召喚されたパウロは、ユダヤ人からの訴えに対して弁明します。この後、アグリッパ王の前でも「弁明」します。(26:1)
弁明とは、言い訳とは違います。訴えに対して事実、真実を語ることです。私たちも、信仰について弁明ができるように、充分な備えをしておきたいと思います。
「あなたがたの希望について説明を求める人には、誰にでも、いつでも弁明できる用意をしておきなさい。」(1ペテロ3:15)
そのためには聖書知識を蓄えることも必要ですが、知識だけではなく、聖書的な価値観、考え方、生き方を身に着けることです。クリスチャンとしての存在、生き方が、そのまま弁明となれば素晴らしいです。
また、ただ理屈で相手をねじ伏せても意味はありません。何よりも愛をもって弁明するのです。
「あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていてもーーー愛がないなら私は無に等しいのです。」(1コリント13:2)
求める者に対して、誰にでも、いつでも、愛をもって弁明できるように準備しておきたいものです。
天の父なる神さま
私たちに弁明できるだけの知識をお与えください。また私自身の存在と生き方がイエスさまの存在を弁明できるようになりますように。どうぞ聖霊に満たして整えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
文:関真士