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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『神から離れるな』 


 イスラエルの王がいなかった時代、民はそれぞれが正しいと思うことを行っていました。彼らは、異教の民を追放せよという主の命令に背いた結果、霊的にも道徳的にも崩壊していったようです。特にギブアでの戦いはイスラエルにとって民族の傷となりました。


 ギブアでの戦いとは、ベニヤミン対11部族による内戦のことですが、その原因となったのは、エフライム山地の奥に寄留していたレビ人の妻に起こった出来事にありました。夫を裏切って実家に帰った妻は、迎えに来た夫と帰路の途中、ギブアというベニヤミンの町で襲われ、暴行を受けた後、死んでしまいます。その肢体を夫は連れ帰って12の部分に切り分けると、イスラエル全土に送り付けました。このことによって、イスラエル全土は怒り、ベニアミン族との戦いが始まっていきます。


 同じ国民同士で戦う時代というのは、悲しい時代だと思います。それぞれが自分たちを正しいと信じるものに従い、異なる相手を滅ぼして行くのです。究極の自己中心です。しかし、それをさばくことのできる人など、神を除いては誰もいないのです。誰であれ、ある一定の条件が揃うなら、人の道を踏み外してしまう危険性を秘めているのだと思います。だから主は、気を付けなさい、と彼らの残虐な行為を通して、警告を発しているのではないかと思います。レビ人の夫や、ギブアのよこしまな者たちのような冷淡さや残忍さなど自分の中にはない、などとは言えないということだと思います。


 私たちは、神から離れるなら、どこまでも堕落して、人の心を失ってしまう生きものなのだと思います。みことばに留まらずに、自分の考えや正しさを求めるなら、孤立していく者なのだと思います。なぜなら、この章に登場する人たちは皆、神から離れた結果、人の心を失って、孤立した人たちだったと思うからです。


 レビ人は山地の奥に住んでいたのではなく、寄留していました。本来なら大祭司に仕える働きがあったにもかかわらず、一人で山地の奥に寄留していました。ユダのベツレヘムから側女を妻に迎えてはいますが、それが愛の関係にあったかは疑問です。レビ人の妻になった側女は、夫を裏切りました。側女の父は、夫であるレビ人との宴会をしましたが、そこに娘は参加していません。また、ギブアには寄留していた老人がいました。彼には多少の良心はあったものの、レビ人の代わりに自分の娘とレビ人の妻を差し出そうと考えたところに、人としての良心を疑います。


 ギブアのよこしまな者たちは、文字通り、堕落し、人の心を失っていました。そうでなければ、あのような残忍な行為が出来るはずがありません。そしてそこに追い打ちをかけるかのような夫の態度に唖然とします。彼は戸口に倒れている妻を抱きかかえることもなく、ただ「立ちなさい」と声をかけただけでした。反応がないのを見て死んでいることを悟りますが、彼女の死について嘆いてもいません。淡々と、彼女をロバに乗せて連れ帰り、そこで彼女の肢体を切り刻むという行為に出た時点で、彼はすでに人ではなかったと、私は思いました。


 主はこの忌まわしい出来事を通して私に「神から決して離れてはいけない」と語ってくださったように思いました。どんなことがあっても、みことばに留まり続け、主に信頼して歩みなさい、と語ってくださったように思いました。苦しくても、悲しくても、主はいつも私とともにいてくださいます。心新たに、主の御足の跡を、歩み始めたいと思います。

 

祈り:愛する天のお父さま。吐気をもよおすような残虐な出来事を通して、決して神から離れてはいけないことを学びました。神のいない環境に自分を置くなら、私も彼らと同じことをしてしまう者なのだと、心の奥底にある闇を照らされたような気持ちです。新たな気づきに感謝いたします。あなたの御名がとこしえにほめたたえられますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:King’s Comment、民数記3章、レビ記21章、ヨシュア記21章、ホセア9:9、ハーベストタイム旧約聖書シリーズ士師記



 18章は、イスラエルには王がいなかったために民はそれぞれが神のみこころから外れたことを平気で行っていた。17章ではミカを通してみてきたが、今回はダン部族の堕落を通しての混乱が語られている。


 ダン部族は、自分達が住む相続地を求めるために部族全体の中から五人の者を選び、新しい土地を偵察し調査するために派遣した。そこでおこる人々の混乱状態が赤裸々に述べられている。


 ミカの家に行った時に自分たちの旅が成功するかどうかを大祭司を無視して、レビ人に尋ねたり、ミカが造った偶像に心がひかれたり、祭司も地位や名誉に心がひかれ、主人ミカを裏切り、そしてそこにあった偶像を盗んだりしたのである。また、ミカは近所の家の者たちを集めてダン部族を追って彼らに呼びかけるが、多勢に無勢で引き下がるしかなかったのである。これはミカの罪に対する神のさばきだと言われているそうです。

            

 このような混乱は、イスラエルに王がいなかったために起こったのである。かれらは、まことの神の御言葉に聞き従わなかった結果、異教の神々を礼拝していったのであります。感謝なことに私たちクリスチャンには、真の王、イエスさまがおられる。日々、イエスさまの御言葉に聞き従っていかなければ、私たちも大混乱の中に陥る危険は十分にあります。  

 ダン族がライシュの民を襲うときの28節のみことばに注目させられた。「だれも救い出すものはいなかった。その町はシドンから遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかったからである。」28節(抜粋)を読んでいる時に、人は、他者との交わりが大切であることが示された思いである。交わりをすることによって相手を知り、助け合っていけるということです。



 愛する天の父なる神さま。私たちも、神のみことばに聞き従わなかったら自分の思うように間違った道を歩くことになります。そのような間違った道を歩いていたらどうぞあなたの道へ歩ませてください。あなたの御言葉を聞き従っていくことができますように導いてください。感謝し、委ねて、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 士師記17章は、ミカについて語られています。彼は母親から銀を盗んでしまいますが、そのことを母親に正直に告白し、銀を返します。母親は彼を受け入れ、祝福の言葉を贈りますが、返してもらった銀で彫像と鋳造を造ってしまうのです。


 そして、彼は自分の家に神の宮を建て、エポテ(大祭司が着用するベスト)とテラフィム(人の形をした像)を作り、自分の息子を偽りの祭司として任命しました。さらに、ミカはベツレヘム出身のレビ人を雇い入れ、自分の家の宮の祭司として受け入れるのです。


「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記17:6)


 当時イスラエルには王も指導者もなく、それぞれが自分の目に正しいと思うことを行い、主の御名を用いながらも神のみこころに反し、偶像を作って礼拝をして神から離れていました。


「そこで、ミカは言った。『今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。』」(士師記17:13)


 このミカのことばは、神のみこころを忘れ、都合のいいご利益主義に走っていて、神さまとの関係を壊してしまっています。


 私がこのディボーションを書かせてもらっているとき、私の父が数日で神さまのところへ旅立とうとしています。もし、17章のように神さまを知りながらも指導者がいなければ、自然と神さまから遠ざかり都合のいい利益を求める祈りになっていたかもしれません。また、現代でも、AIジーザスなどの技術が使われ、私たちの悩みを聞き、みことばで励ましてくれます。


 しかし、先日の礼拝で牧師はいらないのか?とメッセージされてましたが、やはり羊飼いである牧師の存在は依然として大切です。そして神の家族、兄弟姉妹の祈りにまさるものはありません。私たちは一つの体であり、聖霊の力を借りて共に祈り、励まし合います。大好きな父とのお別れも、みなの祈りに支えられています。このように導いてそなえてくださる神さまに感謝しかありません。



愛する天のお父さま

 私の父がこの世を去り、あなたのみもとに旅立つ時が近づいています。頑固な父でしたが、家族に幸せと喜びをもたらしてくれました。どうか父をあなたの愛と慈悲の中に受け入れてください。父の魂が永遠の平安と幸せを見出すことができますように。神さま、父をあなたの手に委ねます。あなたの側で喜びに満ちた生活を送ることができますように。イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン


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