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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。』


 普通ならば囚人の右手が一人の監視人の左手に繋がれていたのだそうですが、牢獄にいたペテロが処刑される前の晩、彼は両側にいた監視人に両手を繋がれていたのです。そして戸口には多数の番兵が監視していました。そんな厳しい状況の中にいたペテロを、教会の熱心な祈りに主がお答えになってみ使いを送り、救出されたのです。


 15節にあるように、「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」原文では、この二つの文の間に、「しかし」(But)という言葉が挿入されています。ペテロのその時の状況から考えて、教会の人たちにとって、彼を救い出すのは全く不可能な状況に見えたに違いありません。しかし、「どうせ祈っても無駄だろう」などとは思わないで、教会の人たちは熱心に祈り続けたのです。この熱心な祈りを主は聞かれたのです。彼らの祈りの熱さがわかります。


 しかし、その晩救出されて彼らのところに帰ってきてドアを激しく叩いているペテロのことを女中が、弟子たちに告げました。すると弟子たちは「あなたは気が狂っているのだ。」(15)といい、実際目の前にペテロを見た時も彼らは「非常に驚いた。」(16)とあります。これらのことから判断すると、彼らは状況の厳しさを知っていて、これはいくら熱心に祈ってもペテロは救出されないに違いない。主にペテロのことを救って欲しいと、完全に信じたいけれど、そうではない、やはり無理なお願いなのかなと思いつつ祈っていたのかなと、ついつい思わされます。


 私自身の勝手な解釈かも知れませんが、3節に記述されている剣で殺されたヨハネの兄弟ヤコブのことを思っていたのかも知れません。あの時もヤコブの救いを熱く祈ったに違いありません。しかし祈った願いの通りにはならなかったのかも知れません。


 いずれにせよ、ここを読む私たちには、彼らの祈りの内容/方法は分からなくても、彼らはペテロの救出を必死に願いつつ熱い祈りをしたのは確かなことです。そういう祈りに対して、神は、彼らの「願うところ、思うところの全てを超えて豊かに」(エペソ3:20)こたえてくださいました。祈りの答えは、祈る側の完全さにあるのではなく、主の憐みにあるということがわかります。ありがたいことです。


愛する天のお父様、あなたの聖名を賛美します。私たちの信仰は不完全なものであり、祈りもまた不完全なものです。それでも主よ、あなたは私たちが熱心に祈るとき、あなたはそれを聞き、私たちが求めるものを与えてくださることを感謝します。私たちの教会も世界の平和安全必要のため、祝福のため熱心に祈れますようにお導きください。アーメン


hccnichigo

「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によるバプテスマを授けられる。」―16節(抜粋)―


「ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」―17節―


 11章は10章と関連していることが語られている。ペテロがエルサレムに上って来た時に、割礼を受けていない異邦人たちと食事をしたことを非難されたことについて、彼らに事の次第を順序立てて説明した。

 ペテロが神からの幻を見て、「神がきよめたものを、きよくないと言ってはならない」と言われたこと、そして、百人隊長であったコルネルウスが、ペテロを招いて主イエス・キリストの救いについて語ってもらうようにと天使から告げられたこと、又、ペンテコステの日に使徒たちの上に聖霊が下ったのと同じように、異邦人であるコルネリウスたちの上にも聖霊が下って、彼らは異言を語って神を賛美したことが、繰り返し述べられています。そして、ペテロは17節の御言葉を語ったとき、人々はそれを聞いて沈黙したのである。

 

「それでは、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。―17節―


 生まれたばかりのキリスト教会にとって、それほどまでに重要な意味を持つ出来事であったことがここに表われていると言われているそうです。


 私たちクリスチャンの先駆者であられる方たちが、初めてのキリスト教会をたてあげるのにどれほど大変だったかがうかがわれます。そこまでできたのは、神が彼らの背後でお働きになっておられたからであります。私たちも自ら洗礼を授かったのではないです。背後に主なる神が働いておられたからです。私たちの神は、今もこれからもずっと私たちと共におられます。日々十字架を負い、主なる神に従っていけるものになっていくことです。



 天の父なる神さま。御名をほめたたえます。主なる神は、私たちすべての者に平等です。どうぞ、互いが愛しあい、赦し合っていくことができますように。それがキリストの体である教会成長につながっていけるということを、一人一人が自覚していくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



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「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(15)


 この10章の異邦人コルネリウスの回心の出来事は、教会の歴史において大きな転機となりました。それまでは救いはユダヤ人だけのものだと考えられていました。ところが救いは異邦人にも及ぶということが明確になったからです。


 ペテロ自身も驚きだったでしょう。神はペテロに幻を見せ、上記のことばを語り、ペテロに異邦人も救われるということを示すのです。そして、コルネリウスが救われたと分かったのは「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。」(44)からです。聖霊が下ったということは、その人が救われたということを現わします。


 この後、パウロによって異邦人伝道が進む中で、まだ救いはユダヤ人だけだと理解している人々との間に論争が起こります。そして、異邦人も救われるのか?というテーマでエルサレム会議が開催され、そこで異邦人も救われるということが確認されたのです(使徒の働き15章)。ユダヤ人にとっては、何千年の歴史の中で信じ続けてきたこと、理解してきたことと違うことが起こったのですから、混乱するのは当然でしょう。しかし、旧約聖書をよく読めば、異邦人の救いは記されているのです。


 私たちが当たり前だと信じていることが、実は聖書ではなく伝統であったり、文化であったりすることがあります。「本当に聖書は、そう言っているのか?」この問いを常に持ちながら、神の御心を求めていきたいと思います。


天の父なる神さま

「本当に神は、そう言われているのか?」この事をいつも問いながら、あなたの御心を求めていきます。どうぞ、真の御心を私たちに教えてください。そしてその御心に従っていけるように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                                文:関真士


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