top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしは、ミデアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」(2)


 これから敵と戦うという時に、神はあえて兵を減らすようにギデオンに命じました。3万2千人いた兵士のほとんどが去って1万人しかいなくなりました。

 それでも神は「兵は、まだ多すぎる。」(4)と言われて、なんと300人まで兵を減らしたのです。戦いを前にして兵を増やすなら分かりますが、逆に減らすのです。しかも300人まで減らすのです。


 その理由は明らかです。彼らが高慢にならないためです。神の恵みを忘れ、自分の力で勝ったと思わないためです。もしこんな少人数で勝利することが出来たら、これはまさに神業だと、敵も味方も誰もが神の栄光を見るためです。


 神は、私たちが高慢にならないために、恵みを忘れないために、神に栄光を帰するために、あえて減らすということがあります。

 私たちは、減らされることで真の謙遜を身に着けるのです。神の力と勝利を得て、さらにその力と勝利を経験し続けるためには、一に謙遜、二に謙遜、三四がなくて五に謙遜です。とにかく謙遜であることです。


 謙遜とは、神の恵みに生きることです。卑下することでも、遠慮することでもありません。しかしながら、謙遜であることは何と難しいことでしょうか。私たちは容易に、「自分の手」を誇るようになります。真の謙遜を身に着けたいと心から願います。そのためには、高慢な自分の姿を認め、主の十字架のもとへと進み行くことができますように。


 天の父なる神さま

 どうか、私が真の謙遜を身に着けることができますように。高慢は、すべての祝福を台無しにしてしまいます。私が恵みに生き続けることが出来ますように。自分の高慢さを隠すことなく、主の御前に正直な自分でありますように、聖霊が励まし、導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン                                           文:関真士



『主の霊がギデオンをおおった』


 イスラエルはミディアン人(アラビア人)によって懲らしめられ、搾取されていた、そのような中でギデオン(伐採者)がミディアン人から隠れるように、小麦を打っている中に主の御使いが現れた。ここはガリラヤ湖から南に下った場所オフラ、やがて祭壇が築かれアドナイ(主)・シャロム(平安)と名付けられます。


 ギデオンはサムソンのように怪力の腕力を持つ者ではありません、むしろ自分の弱さを知っていました。だから余計に、主からのしるしを求めたのです。子羊と種なしパンを焼き尽くしたりして、確かにこれは主の御使いである事を確認した上で、父が敬っているバアルの祭壇を壊すわけですが、彼はそれを堂々としたわけではなく、夜にこっそりとしている姿が気弱なギデオンを表しているようです。


 ところがそのようなひ弱なギデオンが主の霊におおわれたのです。34節「主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人(マナセ族の氏族)が集まって来て、彼に従った。」次々にイスラエル民族が集まって来たのです。そしてさらに集まった戦士たちの前で、羊の毛を使って、これはギデオンによってイスラエルを救おうとされるしるしを2度も見せて確認をとっています。


 この士師記全体に出てくる主の霊の働きは、イスラエルの民を救うための力の霊、戦いの霊と言っても良いかもしれません。ヨシュアによって約束の地カナンを征服した後の時代、イスラエルの民は、恐らく400年ほど宗教的暗黒時代に入ります、やがてサムエルが王となり王国時代が始まるのですが、それ以前の、偶像礼拝をし、不法の中で信仰が緩んでしまったイスラエルの民の中に、主の霊によって選ばれた士師が現れた時代、これはヨシュア記とサムエル記の間の時代の出来事です。


 さて旧約時代の主の霊と新約時代の霊の違いは決定的です。旧約時代と違って、私たちが主イエスによって頂いている霊は、世界最高の霊であり、命を与える霊であって、戦いの霊ではありませんし、復讐の霊でもありません。柔和な霊であり、七の七十倍赦す力を持った主イエスの霊です。聖霊である主イエスの霊は、敵の罪を赦し、すすんで我が身を十字架にかけられ、肉体の死をもって、全ての人の贖罪のために死ぬほどの霊であります。私たちは、この聖霊に満たされる者となっている事に感謝致します。この聖霊におおわれましょう!


 祈り

 主イエスが私たちに遣わされた、最も聖なる霊に感謝致します。どこまでも愛し、赦しながらも主イエスの栄光を現すためには、はがねのような意志を持って勇敢に暗闇の世に立ち向かう力も下さいました。どうか主イエスの栄光が常に現すことが出来ますように

アーメン  

文:森 宗孝


『デボラの賛美』 


 二十年にわたる苦しみの時代から解放されたその日、デボラとアビノアムの子バラクは主への賛美を歌いました。それは主の臨在なくして勝利なしという信仰が歌の中心にありました。しかし内容は、私たちが普段歌っているものとは異なり、戦いについての細かな状況が含まれていました。カナン人の王ヤビンの占領下にあった時代の民の様子や戦いの様子など、また指揮官シセラを討ったヤエルや討たれたシセラの母についても歌われていました。この賛美は、ただ単に戦いの勝利を歌ったものではありません。この賛美は主への献げもの、頌栄です。


 デボラの賛美は、4章で書かれていた事を重複していますが、内容は詳しくなっています。カナン人の王ヤビンが、彼の指揮官であるシセラにナフタリの町を任せていた時代、隊商は絶え、旅人は脇道を通ったと言います。つまり外出するのも、旅に出るのも危険な状況であったということです。農夫も絶えたその町に、デボラはイスラエルの母として立ち上がります。


 デボラ、そしてバラクを含む指導者たちが立ち上がり、民もまた自ら進んで主の戦いに参加すると、主によって勝利はイスラエルにもたらされました。町には平和が戻り、茶色の雌ロバに乗る旅人や、敷物の上に座る隊商たちが戻って来ました。しかしまだ指揮官シエラや王のヤエルが残っています。デボラは「目覚めよ、デボラ」と自身を叱咤し、バラクを導いていきます。


 私たちは、平和な社会に身を置いていますが、霊的には常に悪霊との戦いの中にいることを忘れてはいけないと思います。特に主の働きに従事している人たちは要注意です。主イエスもまた、十字架にかかる前日、弟子たちに霊の目を覚ましているようにと警告されました。もし何をするにも心がこもらないようなことがあるなら、「目覚めよ!」と自身を𠮟咤しなくてはいけないのかも知れません。


 デボラは士師として用いられましたが、士師とは称号ではありません。士師として選ばれたからといって、何かしかの地位に着いたわけでもありません。士師は神に士師として選ばれた、というだけで、それ以外何もありません。真の士師は神のみです。そのため彼らは「自分には何もない。主ご自身がさばかれる」ということを理解していなければなりませんでした。


 デボラは、士師として2重に仕えた人だと思いました。彼女は士師でしたが、戦場で敵をさばいたのはバラクという男でした。バラクは主が、イスラエルの民を救うために用いた男でした。しかし彼は、鉄の戦車を持つ敵に怖気付き、主の命令に従えないでいました。そこで主はデボラを士師として用い、バラクを立たせました。デボラは士師として主に仕えるように、バラクにも仕えたのです。


 神は女を男の助け手として創造され、その通りに主はデボラを用いたように思いました。またデボラ自身、そのように用いられていることに何ら疑問も持たず、反抗もせず、ただ主のみわざに驚き、すべての栄光を主に帰しています。


 デボラから学ぶことがたくさんあると思いました。主が私に与えた役割について、じっくり考えようと思いました。自分が現在担っているいろいろな働きについて、それらが果たしてすべて、私がするべきことなのかどうか、もう一度、時間をかけて、祈りをもって、考えてみたいと思いました。


 

祈り:愛する天のお父さま。デボラのように、主に仕えるように、人に仕えることができますように導いてください。どうか、私の心を探り、傲慢の種を取り除いてくださいますよう、お願いいたします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:King’s Comment, Matthew Henry,


bottom of page