top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下
hccnichigo

「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」(15)


 この10章の異邦人コルネリウスの回心の出来事は、教会の歴史において大きな転機となりました。それまでは救いはユダヤ人だけのものだと考えられていました。ところが救いは異邦人にも及ぶということが明確になったからです。


 ペテロ自身も驚きだったでしょう。神はペテロに幻を見せ、上記のことばを語り、ペテロに異邦人も救われるということを示すのです。そして、コルネリウスが救われたと分かったのは「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。」(44)からです。聖霊が下ったということは、その人が救われたということを現わします。


 この後、パウロによって異邦人伝道が進む中で、まだ救いはユダヤ人だけだと理解している人々との間に論争が起こります。そして、異邦人も救われるのか?というテーマでエルサレム会議が開催され、そこで異邦人も救われるということが確認されたのです(使徒の働き15章)。ユダヤ人にとっては、何千年の歴史の中で信じ続けてきたこと、理解してきたことと違うことが起こったのですから、混乱するのは当然でしょう。しかし、旧約聖書をよく読めば、異邦人の救いは記されているのです。


 私たちが当たり前だと信じていることが、実は聖書ではなく伝統であったり、文化であったりすることがあります。「本当に聖書は、そう言っているのか?」この問いを常に持ちながら、神の御心を求めていきたいと思います。


天の父なる神さま

「本当に神は、そう言われているのか?」この事をいつも問いながら、あなたの御心を求めていきます。どうぞ、真の御心を私たちに教えてください。そしてその御心に従っていけるように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                                文:関真士


hccnichigo

『サウロとアナニア』


 ここにパウロ(サウロ)の主イエスとの出会い、彼の改心が描かれていますが、かなり改心後の経過の省略があったようです。ダマスコに到着し、まだ目が見えなかったパウロに、主がアナニアを送られ、サウロの目から鱗が落ちた。ここは確かにそのように、パウロの身に起こった大事件であったのに間違いはありません。しかし、20節「ただちに諸会堂でイエスの事を宣べ伝え始めた」とあるのはかなり早急な気がします。


 むしろパウロ自身がガラテア人への手紙で語った経緯、すぐに会堂で福音を伝える前に、相当な時間をかけて主イエスへの信仰の成長があった事だと理解するのです。ガラテヤ書1章17節から2章1節までを読むと、イエス・キリストの啓示を受けてからパウロはまずアラビアに出て行ったとあります。それから3年後にエルサレムに上り、パウロ(ケファ)に会おうとしたがヤコブ以外の使徒とは会えなかった。さらにそれから14年後に今度は、バルナバとテトスと一緒に再びエルサレムに上ったとあります。彼の会心は主にあって一瞬でしたが、それからのパウロは時間をかけて熟考し、自分に与えられた異邦人伝道の事を、毎日のように聖書を読みつつ、反芻して成長してゆき、最後に会堂で福音を述べ伝えたと思うのです。大宣教者であるパウロも、私たちも主イエスを信じてからの心の成長には時間がかかるのですね。


 ユダヤ教の会堂で語るという事は、色々な質問を受けるという事でもあったはずです、旧約聖書の律法の教えと主イエスの新しい戒めをどのように説明すべきか、どのようにして旧約が成就されたのか、違いが何なのか、ユダヤ教の最高のラビでもあったパウロによって解き明かされてゆく真理は、否定しようにも、到底かなうことのできない主の真理が堂々と語られた事であろうと思うのです、その集大成がロマ書であり、数々の諸教会への手紙となって新約聖書に盛り込まれたのです。


 日本のことわざである目からウロコも、恐らくこの聖書の話から出てきたのではないかと思いますが、主はダマスコの信者アナニアをわざわざ使って、クリスチャンの迫害の大元であったサウロの所に遣わされたのです。自分達の友人の宣教師も二人ほど、幻を見て宣教師となった方がおられます。主は生きておられて、今も私たちを通じて働きを続けておられます。


祈り

 主の導きに感謝します。どうか人間の計画による伝道ではなく、主の導きによっての伝道に多くの実が結ばれますように。主の臨在に感謝致します。アーメン  文: 森 宗孝


hccnichigo

『ピリポの伝道』


 使徒の働きは、キリスト教がエルサレムからローマまで、人の計画に基づかずに、どのように広がっていったかという歴史を記しています。やはりその歴史の中心人物は、まずペテロで、次にパウロの働きです。しかし、この8章には、伝道が12使徒から離れて、平信徒のクリスチャンに移り、彼らが聖霊を受けた時の伝道が記されているように思います。確かに、まずクリスチャンを迫害するサウロ、やがてパウロと呼ばれる以前の姿が前座のごとく紹介されます。そしてユダヤ教に敵対するクリスチャンの教会を荒らし、男も女も牢に入れたサウロが描かれています。しかしそのような迫害の嵐がエルサレムを襲ったの描かれています。これら地方に散らされたクリスチャンは、福音を伝えながら巡り歩いたとありますから、父なる神は、このような迫害をも、世界への福音伝道のきっかけとしてお許しになったと思うのです。信者たちが自ら企画して動いた伝道では無かったのです。そして、この時のエルサレムのクリスチャン迫害するサウロが、ステパノの最後の叫び「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」との叫びは、やがて改心し名前も変わる若きパウロの心に響き続けたのではないかと思うのです。


 さて、ここに主に登場するピリポは、12使徒のピリポではなく、教会の世話役(使徒の働き6章5節)ステパノと同時に選ばれた平信徒ピリポです。教会では寡婦に出す食事の世話をしていた彼は、今度は異邦人に福音を配るために選ばれたのです。彼は聖霊に満たされ、導かれていたのでしょう。まずはサマリア伝道で癒しを行い、多くの人が、彼の伝道の影響で、主イエスを信じます。すると主の使いが南に行ってガザに下る道に導かれました。そこで今度はエチオピアの宦官と出会います。彼は馬車に乗っていたとあります。その馬車の横を飛ぶように走ったのでしょうか、ピリポがイザヤ書を読んでいる宦官に話しかけたとあります。彼が読んでいたのがイザヤ書53章、これは預言者イザヤが、まるで十字架の主イエスを見ながら書かれたと思うほど、イエスの十字架を表しているイザヤ53章ですが、ここから始めてイエスの福音を伝え、バプテスマを授けたとあります。大変な伝道者のピリポです。この結果ではないかと思うのですが、エチオピアでは多くのクリスチャンが起こされています。現在ではエチオピア正教会は全世界で3600万人の信者がいるそうです。


 話は飛びますが、先月パリ・オリンピック時期での伝道を語ってくださったレイカさんの話を思い起こしました。彼女はマルセイユで多くの国々の人とアップル・Phoneの自動翻訳を使いながら伝道することができ、しかも癒しの体験もされたと宣教報告をして下さいましたね。ピリポも12使徒のような特別な者ではなく、教会の世話役に選ばれたという普通の平信徒でした、しかし聖霊の導きによって特別な働きをしています。同僚のステパノは最初の殉教者ですね。聖霊に満たされた時には、信じる者に大変な力とわざが与えられることがここに秘められたメッセージではないでしょうか。


祈り

主は確かに生きておられて、私たちに聖霊を授けられて、語りかけておられます。どうか私たちが心を開き、耳を開き、聖霊のみことばを聞き取ることができますように、そうして一旦、その導きの声を受けましたら、勇気を持って行動することができますように力づけて下さい。 アーメン 

文:森 宗孝


bottom of page