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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 信仰と聖霊に満ちたステパノは、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。最高法院に引かれて行ったときにかれの顔は御使いの顔のように見えたと、6章では述べられていた。そして、7章ではステパノは使徒の働きの中で最も長い説教を語るのである。


 ステパノの説教は、彼自身が死を覚悟で語ったものだったと思わされました。

彼はアブラハムの時から始まり彼の時代に至るまでのユダヤ人の歴史をたどりながら、神に対するユダヤ人の反逆、神殿礼拝の問題に触れたのである。結論として、彼らは聖霊に逆らっている、イエスを殺した、律法に背いている、と述べたのである。これらのことを聞いた人々は、はらわたが煮え返る思いで、歯ぎしりしていた。そして、ステパノに向かって殺到して、彼をめがけて石をなげつけ殺したのである。その時にステパノが主を呼んで言った言葉が十字架上で言われたイエス様の言葉と重なってくるようでした。


「主イエスよ、私の霊をお受けください。」―59節(抜粋)―


「そして、ひざまずいて大声で叫んだ。『主よ、この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、彼は眠りについた。」―60節―


 ステパノは、実に立派な使徒としての殉教の終わりを遂げた。ちなみに彼は、使徒の中で初めての殉教者だと言われています。


 58節を読んでいて気になったことは、人々がじぶんたちの上着をサウロという青年の足もとに置いた、というところだ。このサウロはのちのパウロのことで、ここにいたステパノの殉教をみてどのような気持ちだったのでしょうか。主なる神は、きっとそのころからパウロを用いられるようにご計画なさっておられたのではなかったのかと思わされるところです。



 天の父なる神さま。今日の御言葉を感謝します。ステパノの使徒としての働き、聖霊によって何をも恐れずに行動にでたことは、私たちクリスチャンにとっても大いに学ばされることだと思いました。今でも、イエス様のことを語る時に必ず迫害があります。私達は、聖霊をおむかえしなければ何もできません。どうぞ、私たち自身が、聖霊によって強くされて、用いていただけますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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 初期の教会において、問題が生じた。毎日の配給でギリシャ語を使うユダヤ人のやもめたちがなおざりにされているというのだ。どんな集団の中でも人と人が交わると何かしらの行き違いが起こる。


 一方だけの話を聞いて、後でもう一方の話を聞くと全く違った内容を知らされたりするし、自分がその渦中にはいって、相手にまったく意図しない方向に受け取られてて驚愕することもある。


 一口に配膳係というが、結構大変なご奉仕だ。下手したら問題が解決しないどころか、さらに大きくなったりすることもあるのに、使徒たちは弟子たちに働く御霊の力を信じて任せることにした。すべての弟子を集め、その中で、御霊と知恵に満ちた、評判のいい人たちを7人選出させ、その任務にあてらせたのだ。


 そこで選出された人の一人、ステパノは、配膳の奉仕だけでなく、大きな不思議としるしを行うようにもなった。このご奉仕に選ばれたのだから、もともと御霊と知恵に満ちた人であったと思うが、自力では到底解決できないご奉仕に関わる問題の一つ一つにに真摯に取り組む中で、さらに御霊に満たされていったに違いない。だからこそ、神様はステパノを通して大いにそのご存在を表して下さった。ステパノ自身もますます神様への信頼を深めていって、みことばを語らずにはいられない状態だったのだろうと思う。


 リベルテンといわれる会堂に属する人々はそんなステパノと論じ合い、どうにも対抗することができなかった。それはステパノが論じ合っていたのではなく、聖霊が対抗していたからだ。

 

 そのことでステパノは彼らからすっかり反感を買ってしまい、イエス様と同じようにねたみ、恨みを買って、うその証言によって最高法院にひかれていってしまった。イエス様のことがあったから、この時ステパノも死が頭をよぎったかもしれないが、彼の顔はみ使いの顔のようであったという。聖霊様に守られ、この地のいのちを思うよりも、神様からの導きのまま従う喜びだけに満たされていたのだろう。


 この後ステパノは結局石打にされてしまう。人の目から見たら、志半ばで悪に負けてしまったかのようだ。彼の他者への愛情なんて踏みにじられているように見える。しかし、このステパノの殉教に立ち会っていたパウロももしかしたら、ステパノのなんのくもりもない信仰が、心に残っていたかもしれない。また、この後に続く使徒の殉教の際にも、彼らに励ましを与えたのではないかと思うのだ。神様のご計画は人には計り知れない。私の人生も神様の御手の中にあり、私のいい選択も間違った選択も一つ一つが神様にあって益とされていく、神様の栄光に繋がるという真実に平安をいただいていきたいと思わされた。


天のお父様、今日のみことばをありがとうございます。主と共に歩ませていただけることを感謝いたします。どうぞ私の心を清め、御霊で満たしてください。傷をいやし、慰めてください。朝毎に新しい力を与えてください。御心を求め、行えますように。必要な恵みと知恵を与えて下さいますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン


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 41節の「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て入った。」という節に目が留まりました。そして42節では、「そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。」とあります。


 ペテロと使徒たちから、『神を欺いた。』と尋問されたアナニアは、その時息絶え、その後、それを知らないその妻サッピラが、同様に、神に欺いたため、即座にペテロの足もとに倒れて息絶えます。地書を売り、その代金の一部を自分たちのために取っておきながら、献金した金額が全額だといって偽って献金したためにアナニア夫婦は息絶えてしまいます。(1-10節)彼らが急に息絶えたことを聞いた人たちが、大きな恐れを抱き始めました。(11節)神は生きておられると認識せざるを得ない聖い畏怖の念が皆を覆ったのではないでしょうか?


 使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われ、主を信じる者たちがますます増えます。(12-14節)また、病人や汚れた霊に苦しめられている人々をが連れてこられ、皆が癒されます。そこで、大祭司とその仲間たち、サドカイ派の者たちが、妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを公の留置場に入れるのですが、主の使いが牢の戸を開け連れ出してしまいます。牢獄にいるはずの使徒たちがいなくなって、宮の守衛長や祭司長たちは、困惑してしまいます。(17ー24節)


 最高法院で、大祭司は使徒たちに『あの名(キリストのこと)によって教えてはならないと厳しく命じたではないか』と尋問すると、ペテロと使徒たちはこう答えます。『人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右にあげられました。 私たちはこれらのことの証人。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。』(29-32節) 


 それを聞くと、又もや、大祭司や議員は怒り狂い、使徒たちを殺そうと考えますが、民全体に尊敬されている律法の教師ガマリエルというパリサイ人が現れ、大祭司たちにこう言ってなだめます。『この者たちから手を引き、放っておきなさい。 もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対するものになってしまいます。』議員たちは彼の意見に従い、ペテロと使徒たちをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと再度命じたうえで、釈放してしまいます。(35-39節抜粋)


主の祈り: 教会はキリストのからだであり、神のいのちである聖霊の宮、教会は神を恐れて生きる時のみ、大きく前進していくことができることを悟りました。 ああ、どうか、主よ、聖霊様を通して私たちを導いてください。 今も生きておられる全能の神、あなたの愛を感謝します。 アーメン


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