top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

『主の懲らしめ』 


 約束の地に入国した10部族は、主が与えると言われた土地を完全には征服しませんでした。先住するカナン人を完全に追い払うことが出来なかったのです。そのような民に「わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる」という主の使いのメッセージは、士師記全体を物語っています。


 主の使いが言われた通り、ヨシュアとその世代の亡き後、イスラエルの新しい世代は主を捨てて、バアルやアシュタロテといった偶像を礼拝するようになり、主の怒りを引き起こします。そしてそのような彼らに待っていたのは苦しみでした。しかしあわれみ深い神は、その彼らにさばきつかさ(士師)を送られます。士師が生きている間、彼らは敵から守られ、主に仕えますが、士師が死ぬとさらに堕落し、他の神々に仕える、ということを繰り返していきます。


 天地を創造された神がこの状況を一瞬にして片づけられないことはありません。これまでもノアの洪水を起こされ、一瞬にしてすべてを一新されました。しかし、アブラハムが起こされてからというもの、いかに民が反抗しようと神は救い続けます。それは主イエスが再臨され、永遠の御国が来る日まで続きます。それは神がアブラハムと交わされた契約が生きているからです。


 神は背信の民イスラエルを滅ぼす代わりに、敵を用いて彼らを訓練すると言われます(21‐22)。それは主からの叱責ではなく、励ましです(箴言3:11‐12、へブル12:5‐7)。私たちも、思い通りに行かない時、霊的に停滞していると感じる時、それは主が私たちを愛するがゆえの訓練であると受け取るなら、霊的に鍛えられ、神の義という平安の実を結ぶと言います(へブル12:11)。


 約束の地に先住する異邦の民を残したのは10部族ですが、それさえ主は彼らを訓練するために用いられました。そのことを思う時、困難や苦難というのは信者にとっては神の恵みであることがわかります。すべては御国への準備なのです。イスラエルの民によるカナン入国は、私たちの御国への入国の型なのです。


 士師記を通して私たちはあきれるほどに同じことを繰り返すイスラエルの民を見ることになりますが、それはまた、自分自身の姿でもあるということを忘れてはいけないと思いました。主イエスの十字架以降、どのような罪もすでに赦されていますが、神が愛する子どもを躾けないことはないのです。主の懲らしめに感謝をささげたいと思います。



祈り:愛する天のお父さま。イスラエルの民の行動は、同じ過ちを繰り返してしまう自分の姿でもありました。それでも主は見捨てることなく、訓練してくださると言います。主の訓練に応えて、礼拝する者へと成長させていただけますよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


文:アイゾン直子

参照:F・B・Meyer


 士師記は、ヨシュアの死からサムエルが生まれる前までのイスラエルの歴史を扱っている。およそ二百年は、全国民を統一する政治的指導者も現われず、国民を統治する機構もできていなかった。また、首都と見られる中心地もなく、各部族はそれぞれ独立した行動をとる傾向にあったと、新改訳聖書は記されている。


 さらに、ヨシュア記が勝利の書と呼ばれるのに対して、士師記は失敗の書と呼ばれている。なぜなら、イスラエルの民が神に背き、偶像礼拝と不道徳に陥るという歩みを際限なく繰り返しているからである。この時代は、イスラエル史の中でも、最も暗い時代と言うことができようと述べられている。


 士師記1章を読んで、リーダーだったヨシュアの死後はイスラエルを引っ張っていく指導者がいなくて民族は怒涛に迷ったことだと思う。そのような事態であっても、イスラエルの子らが勇気をだして主に尋ねるというところに感動した。自分たちで何かをするのではなくて、主、を求めたのである。


 イスラエルの子らは主に尋ねた。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」1節 すると、主は言われた。「ユダが上って行くべきである。見よ、わたしはその地を彼の手に渡した。」2節


 ユダ族は兄弟シメオンといっしょに行って、カナン人を打ち、聖絶し、さらにアシュケロンとその地域、エクロンとその地域も攻め取ったのである。彼らは広範囲にわたって攻め取ったのである。それは主がともにおられたので圧勝できたのである。さらに、ユダは山地も占領した。


「しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。」19節(抜粋)


 しかし、ユダは19節で、主に聞き従うことを忘れて単独行動で平地の住民を追い払うことをしなかったのである。彼らが鉄の戦車を持っているのをみて怖くなったので彼らから目をそらしてしまったのである。ベニヤミン族も同じことをしたのである。勝利をもたらしてくださったのは、主なる神であることを忘れてしまったので、主に聞き従うことができなかったのである。私たちも何らかの問題にぶつかった時に自分の意思で決めるまえに、主に聞き従っていくことができるようになりたいと思わされるところである。


 

 愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を感謝します。たとえ、指導者がいなくても、イスラエルの子らが主に尋ねるように、いつも主に聞き従っていくことできますように。また、目の前にあるものに恐れて逃げるのではなく、常に主が勝利をなしてくださるということを信じて、従っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(15)


 この御言葉は、復活のイエスが弟子たちに命じられた”大宣教命令”と呼ばれる箇所である。

 弟子たちは、文字通りに全世界に出て行って福音を宣べ伝えた。そして、この福音は、東の果ての日本にまで届いたのだが、届くまでにどのくらいの年数がかかったのだろうか。

 諸説あるが、フランシスコ・ザビエルの来日の時とするならば、約1549年かかったことになる。プロテスタントに至っては、1846年にベッテルハイムがイギリスから当時の琉球王国に派遣された。1859年には、長崎、横浜にヘボンをはじめとする4名の宣教師が米国から派遣されてきた。

 日本にまで福音が届いたのは、意外と年数がかかっている。しかし、当時の移動手段を考えると無理もないだろう。それにしても、あのエルサレムにおける聖霊降臨から始まった福音宣教のうねりは、1859年経ってもあり続けたということだ。時間はかかったが、確実に福音は届けられた。そして、この福音宣教のうねりは、今もあり続けている。


 今の時代、昔は何年もかかって命をかけて辿り着いた宣教地に、飛行機でひとっ飛びで着いてしまう。ZOOMで現地の人に直接語ることもできる。まさに全世界への福音宣教が一気に進む時代なのだ。

 イエスさまの時代は、「すべての道はローマに通じる」と言われたように、ローマ帝国によって道路などのインフラが整備されていた。パウロの宣教は、その道があったおかげで進むことが出来たと言われている。

 その道は、当時の最先端技術がもたらしたものだ。パウロが現代にいたら、現代における最先端技術であるインターネットも福音宣教のために用いただろう。


 宣教方法は違えども、福音宣教のうねりの元は同じだ。あの使徒の働き2章から始まった福音宣教のうねりは、今も続いている。

 私たちは、「全世界に出て行って」というイエスの命令に従って、福音宣教に励んでいきたい。


 天の父なる神さま

 私たちが、あなたからの大宣教命令に応えていくことができるように、聖霊の力に満たしてください。

 今の時代においても、まだ福音を聞いたことのない人が大勢います。全世界に住む、すべての造られた者にあなたの福音を宣べ伝えていくことができますように。私ちが与えられたすべての機会とツールを用いていくことができますように。あなたの知恵を与えて

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン         

文:関真士


bottom of page