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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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23節「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」

 


 聖霊の力をうけたパウロとヨハネが大胆に民に伝道していた。その様子をみていた、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちは苛立って二人を逮捕した。そして、尋問したが、そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、恐れずに大胆にイエスさまのことを証ししたのである。


11節「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。」


12節「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」


 聖霊に満たされた彼の口からでる言葉は、すべて真実なことで語らずにはおられなくなるということではないでしょうか。


 ある事実に基づいたドラマを観た時に今日の23節の御言葉に導かれた。


 この映画のタイトルは、「Fatima ファティマ」で、1916年春頃に実際にポルトガルのファティマで起こった話しを映画化したものである。幼いルシアと従妹のフランシスコ、ヤシンタの3人は、ある日、聖母マリアの生きている姿を見た。そして、3人は「聖母マリア」からのメッセージを受け取るのである。3人の幼子たちは、その真実を自分の両親や、教会の神父や市長たちに真実であると告げても信じてくれなかったのである。それでも3人は、両親や他者から蔑まれても、パウロが語ったように、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいかなかったのである。最期は、ファティマの丘で、聖母からの大きな奇跡を目撃するのである。

 現実の話しでは、ルシアはシスターになり、97歳まで神に仕える者としての人生をおくったと言われています。この出来事は、カトリック教会により「ファティマの奇跡」として、バチカンが正式に認めたと述べられています。

 私たちクリスチャンも、聖霊の力をうけて大胆にイエス様のことを語れるようにと思わされるところです。


 

 天の父なる神さま。聖霊の力を受けることができるように、いつも聖霊に委ねる心を持てるようにしてください。そして、まだイエス様を知らない多くの人に、聖霊の力を受けて、私たちを大胆に語れる者へと導いてください。恐れを消してください、勇気を与えてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。



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「イエスによって与えれる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」(16)

 

 生まれつき歩けない男が、ペテロの祈りによって立ち上がり、踊り、神を賛美するようになりました。

 民衆はこの出来事に驚いてペテロとヨハネのもとにやってきました。そこでペテロは「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(12)と問いかけました。そして、この男性を癒したのは、十字架に架かったナザレのイエスなのだということを語ります。


 そして男性が癒されたのは、「イエスによって与えられる信仰」のゆえだと言うのです。ここで信仰という事を考えさせられました。信仰とは、イエスによって与えられるものだということです。

 信じる主体は、確かに「私」です。私の意志で信じることを選んだのです。ですからイエスは、たびたび「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われました。しかし、その「あなたの信仰」とは、イエスから与えられた信仰をあなたが受け取ったあなたの信仰なのです。

 自分で獲得した自分の信仰ではなく、イエスに与えられた自分の信仰です。


 主は、私たちの人生の旅路を共に歩んでくださり、時にかなって必要な恵みをくださり、必要な信仰をくださいます。平凡な日常の時にも、人生の嵐の時にも、主は、必要な信仰を与えてくださいます。

 だから、もっと強い信仰を持たなければと自分を追い詰める必要はないし、ましてや人の信仰と比べることなどありません。

 今日の信仰も、明日の信仰も、信仰は主から与えられるのです。「イエスによって与えられた信仰」によって歩んでいきたいと思います。


天の父なる神さま


 今日も、あなたが与えてくださった信仰によって歩めることを感謝します。ついつい自分の力で信仰を強くし、保とうと思いがちな者たちがですが、どうかあなたから与えられる信仰によって歩むことができるように、私たちを導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                              文:関真士


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『聖霊のバプテスマ』


 この聖霊降誕が起こったのは、エルサレム市内のどこだったのだろう。思うに周りには大勢の人達、エジプトからメソポタミア、ローマ人も居たということは、恐らくエルサレム神殿の外庭、異邦人の庭かソロモンの廊での出来事でありましょう。イザヤ書11章2節「その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、主を恐れる知識の霊である。」


 この場面で神殿に集まっていた人々の中には、主イエスの行った奇跡を目撃した者もいたことでしょう、復活のイエスに出会った者、癒しを実際に受けた者も居たかもしれません。しかし、神殿で祈っていても、主の十字架の理解はできていませんでした。聖霊は単に、浄めをするだけではありません。預言者イザヤによると、聖霊は知恵と悟りの霊で、まずは人の知性に働きかけます。そこで神のみこころを理解する悟り、心の鍵が与えられて、開かれて真理に導いて下さいます。ここで生まれて初めて、今まで奇跡を見て、いわば肉体の癒しを経験したり、聞いたりしていた者たちの心の癒し、本当の癒しが、聖霊によってなされたのです。旧約聖書で約束されていたメシアが主イエス・キリストであること、そして、やっと主イエスの十字架の意味が判った瞬間でした。この新発見によって人々は、喜びと希望が湧き出たのです。    ハレルーヤ!


 さて、よく議論となることは、ここに人々が異言を語り出した事をもって、聖霊を受けることは、イコール、異言を語る事と決めつけてしまう宗派もいるわけですが、自分の理解では、ここでは主イエスの福音の要となる十字架の理解を、地の果てまで広めるための第一歩がエルサレム神殿で始まる場面ですから、3千人もの各地から集まってきた人々が、いっぺんにバプテスマを受けるためには、彼らがしっかりと主イエスの十字架の意味を理解しなければならなかった。神は、人がバベルの塔を建て始めた時に、言葉を分けて、お互いが理解できなくなるようにされたのですから、ここでは使徒たちを使って、お互いが理解できるようにされたわざをなされたと思うのです。重要な点は、聖霊が下って、主のみことばを理解する悟りが与えられた事が一番大切な点ではないでしょうか。聖霊は一つであっても、それぞれの人に下って、外に現れる場合には、それぞれ異なる賜物となって現れるのです。確かに聖霊を受けて異言を話す方が今でもおられると思います。コリント第一12章にも、人はそれぞれ色々な賜物を持っている、全てが預言や癒しをするわけではない。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。という形で、パウロは問われています。異言を唱えても、それを解き明かす人がいなければ、仏教の念仏のように、内容がわからないのであれば意味がありません。


祈り

 どうか聖霊による導きで、心が癒され、清められ、力が与えられ、喜びに満ち、希望が湧き出て、みことばの理解ができる悟りが常に与えられますように、真理に導かれ続けますように、この希望に感謝致します。アーメン  

文:森 宗孝


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