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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『十字架でのことば』


 主イエスは、暴動で人殺しをしたバラバの代わりに十字架にかけられました。バラバという名前は「バル・アッパー」これは父の子と言う意味です。つまり人間の父の子供に代わって、神の子イエスが十字架の死に向かったという深い意味もあるのです。身代わり、贖いの主イエスは、十字架に至るまで、人の身代わりになって下さった事を表しているのですね。


 34節抜粋に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架につけられての4番目の言葉があります。人の子としての主イエスが、ここで初めて、父と親しみを込めて呼ばずに、わが神と表しているのは、死に面したイエスの心が揺すられて、神との関係を疑った言葉として読む事も出来ます。確かに苦しみの中で、叫ぶ声とも思えます。


 しかし、前夜までゲツセマネの園で血の汗を流すまで祈り、父の杯を受ける決意を固めた主イエスが、ここで単に、決意がぐらついたとは思えません。やはり主イエスは最後まで、預言のことばとして、メシア預言の詩篇22編の冒頭を語られて、22編を思い浮かべるようにと苦しみの中で話されたと理解出来ます。


 詩篇22編 冒頭の一節は十字架のみことば通りに「わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか」で始まりますが、締めくくりの2節、30~31節「子孫たちは主に支え 主のことが、世代を超えて語り告げられます。彼らは来て 生まれてくる民に 主の義を告げ知らせます。主が義をおこなわれたからです、。」この結末を思い出すようにと、主イエスは最後の遺言のような預言として、わたしが主の義を行なっていると、耳ある者には伝えたのだと確信するのです。心が開いておられない方にとっては、ほら、神の子と言っているイエスも、天の神から見捨てられているではないですか?と考えてしまうのです。


 最後の最後まで、主イエスの足元に一緒に居て、涙を流したのも、ガリラヤからエルサレムまで弟子たちの食事の世話をしながら上ってきた女性たちでした、復活の主に出会ったのも女性たち、今の教会を支えているのも女性たち。霊的に心が開いている女性群に頭が下がります。そうしてイエスの肉体の死と共に、神殿の幕が神の手によって裂かれるように、上から真っ二つに裂け、今まで、至聖所に入る特権は、大祭司にしか無かったのに、これからはすべての信者が、主イエスを通じて父なる神のもとに行けるようにして下さいました。


 39節「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」ローマ人の隊長は、今まで何十人も十字架刑に立ち会って、亡くなってゆく者たちの最期を見届けてきた事でしょう。しかしイエスのように、最後まで、彼らをお赦しくださいと祈った者もいなければ、天地が闇になって全地を覆った事もありませんでした。何よりもまず、主イエスを神の子と信じたのは、異邦人であった隊長であった事も、これからの世で起こる異邦人伝道を暗示しているように思えるのです。


祈り

主の十字架に感謝致します。身代わりになって、私達を贖って下さった主イエスに心からありがとうと伝えたいです。そしてそのような主イエスを与えて下さった神に感謝致します。アーメン  

文:森 宗孝


『主のみこころがなりますように』 


 過ぎ越しの祭り(種なしパンの祭り)が二日後に迫りました。イエスが十字架に架かられる日が二日後に迫ったのです。その日、祭司長たちと律法学者たちはイエスを殺すための方法を思索していました。イエスはというと、ツァラアトに冒されたシモンの家で、マルタとラザロの妹マリアが持参したナルドの香油によって、ご自身の埋葬の準備を行っていました(ヨハネ12:2‐3参照)。そしてその日、イスカリオテのユダにサタンが入りました。


 香油をイエスに塗った女性マリアの行為は、世界中、福音が宣べ伝えられる所どこででも、記念として語られると主は言われました。そこにいた幾人かの弟子たちは彼女の行為を否みましたが、主は彼女の行為を究極の礼拝として受け入れられたのではと思います。


 マリアが用いたナルドの香油は非常に香りが強く、それは家中に香るほどだったようです(ヨハネ12:3)。その香りは、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、カヤパの官邸、ピラトの法廷、ヴィア・ドロローサ、そして十字架と、その間ずっと漂っていたのかもしれません。そのように創造する時、その香りは、今も福音と共に漂い続け、決して絶えることのない香りなのだろうなと思いました。


 さて祭りの前日、弟子たちはイエスが言われるように過ぎ越しの用意をし、その日の夕方、主は弟子たちと過ぎ越しの食事(主の晩餐)をされました。そしてパンとぶどう酒による契約を弟子たちと結ばれると、彼らを連れてオリーブ山へと出かけます。主はゲッセマネに着かれると、苦悶の祈りを父なる神にささげ、時が来たことを皆に伝えます。イエスはやって来た人々に捕らえられ、大祭司の家へと連行されます。そしてそこで有罪判決が下ると、主が預言された通りのことが弟子たちに、そしてペテロに起きました。


 オリーブ山でイエスは弟子たちに向かって「あなたがたはみな、つまずきます」と言われました。しかし弟子たちは、誠実な思いをもってそれに反論します。しかしイエスが連行されるや否や、その通りのことが起きました。彼らの体験から、過信の愚かさについて学ばされます。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」という思いはペテロにとって真実であったと思います。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは言いません」という思いもまた、弟子たちにとって真実であったと思います。しかし、神が喜ばれる信仰とは、そのような自信にあふれたものではなく、神の赦しなしには生きていけない、そのような信仰だと思います。


 主がゲッセマネにおいて苦悶の祈りをされていた時、ペテロやヤコブ、そしてヨハネは眠っていました。彼らの主に対する思いは誠実なものでしたが、十字架の死を前に、イエスが最も助けを必要としていた時に、励ますことも、また祈ることもなく、眠っていたのです。


「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」(マルコ14:38)


 神は私たちがそういう者であることを、重々承知しておられ、だからこそ、祈りによって勝利を得なさいと教えています。使徒パウロでさえ「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています」と言いました。なぜなら「私には善いことをしたいという願いはいつもあるのに、実行できないから」でした。そして「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています」と告白します(ロマ7:18‐19)。これが原罪を持つ人間の姿なのです。


 しかしだからと言って、それらを神が見逃してくれるということではありません。私たちの内に宿る聖霊によって、からだ(肉)の行いを殺すなら、私たちは生きる、のです(ロマ8:13)。祈りによって勝利を得るということです。


 主イエスがささげたゲッセマネの祈りは、勝利の祈りの模範です。肉の思いを宿す私たちにとって、サタンや悪霊に勝利する方法は祈りしかないのです。主は「目を覚まして祈っていなさい」と言われました。常に霊の目で物事を見、そして祈りなさいと言われるのです。神のみこころにゆだねて祈ることもまた、神への愛の表現です。どんなことも、心を尽くして、みこころが成りますようにと祈りたいと思います。


 

祈り:愛する天のお父さま。祈りの内容が願いばかりの祈りになってしまうことをお赦しください。私がどうなりたいか、どうしたいかではなく、主のみこころがなりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

文:アイゾン直子


参照:King Comment, ハーベストタイム「マルコの福音書」


 13章は、イエスさまの語りかたが強い命令形になっていることに注目したい。「人に惑わされないように気をつけなさい。」「用心していなさい。」「祈りなさい。」「目を覚ましていなさい。」


 イエスさまは、終末が近づいていることを述べられており、神のさばきがくだされるときにおこる前兆を記されている。


 その前兆とは、偽キリストが現れ、人々を惑わすようになる。また、本物の信仰者が憎まれ、迫害されるようになる。

 戦争がおこり、民族同士、国同士が敵対して、激しい苦難を味わうようになる。

 また、異常気象のために地震や津波、飢饉がいろんな国でおこる。また、太陽や月や星など、天体の運行も乱れると言っている。これは異常気象のことでしょう。そうなると環境破壊の問題もますます深刻になっていくことである。

 

 これらのことは、現在すでにおこっていることで、神のさばきの前兆がいろんな所で現れている時代であるのは私たちもいろんなメディアを通して知っていることである。


 天地が消え去るのは、その日、その時がいつなのかはだれもしらない。

それゆえ、イエスさまは弟子たちに(私たちにも言えてることです。)終末に対する備えをする必要があることを述べられておられるのです。


 気をつけて、用心して、祈り、目を覚ましていることが大切であるということです。



 愛する天の父なる神さま。天地は消え去っても神のみことばは永遠のものであること、そのことを信じて心に良い備えをすることができますように助けてください。そして、常に心の目を覚まして、御声に聞き従って、祈ることができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン


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