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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『イエスの復活の証人とならなければならない』


 この書がルカによって執筆されたのはA D63年、パウロがローマで抑留された時のことであろうと思われます。確かにルカは、パウロに付き添うようにして最期まで一緒に居て、ルカの福音書の続きとしてこの書を書き残したわけです。当時は書を出版するには、大変な費用がかかったようで、恐らくその費用を賄った人が、この書の宛先であるテオフィロ様ではないかと推測されています。クリスチャンの弾圧が激しい時期ですから、このテオフィロも実名ではなく、恐らくローマ人で、しかも政府高官の隠れクリチャンではなかったかとも言われています。


 さて、この書は使徒の働きというよりは、「聖霊の働き」と言い変えても良いかもしれません。過越しの祭りに主イエスは十字架に架けられ、3日後に復活された後、40日間にわたって使徒たちに現れた。ですから主イエスは、まるでイスラエルの祭りが象徴する時に合わせたように、働かれて、過越しの祭りから数えて50日後の五旬節、モーセがシナイ山で十戒を神から受けた事を記念する祭りの時に、十戒の代わりに、全ての信じる者たちに、聖霊のバプテズマを授けられたのです。


 この1章でルカが強調しているのは8節抜粋「地の果てまで、わたしの証人となります」と11節「イエスが天に上って行くのを見たのと同じ有様で、またおいでになります。」この2点ではないでしょうか、私たちは主イエスの証し人となって、家の隣人から、故郷の親戚、旅行した時も、全てにおいて主イエスを紹介する役目を与えられました。いつまでか、それは主イエスが実際に再度、この世に、オリーブ山にまたおいでになり、今度はこの世の王として君臨なされる時まで、もしくは君臨された後も続けて「証し人」となることが求められています。


 この場面では、使徒たちはみなとあり、その中には、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、心を一つにして祈っていたとあります。女性と男性が一緒に祈ることはユダヤ教では無かった事でしょう、そしてイエスの母マリアも特別な存在としてではなく、ここには、他の信者と共に祈っていたとあります。プロテスタントの信仰には、母マリア崇拝はありません。主イエスの前には、例え母であろうと、兄弟であろうと、信者の一員となって、皆同じ神の子として祈る姿をここに見ます。


 イスカリオーテのユダの代わりに、マッティアが12使徒目に選ばれた事も書かれていますが、イスカリオーテは、首をくくったと書いてあるのに、ここでは真っ逆さまに落ちて、からだが真っ二つに裂けたとあるので、矛盾点を指摘する方もおられますが、首をくくって死んだ死体は不浄だとして、城壁から、その頃はゴミを投げ捨てていた、エルサレム南のヒノムの谷、ここでは四六時中ゴミを燃やしたりしていたので、ヘブル語のゲーヒンノムからゲヘナ(地獄)という言葉になったのです。ここに死体となったユダが投げ捨てられて、身体が裂けてしまったのですね。しかし、もしもこの主を裏切ったイスカリオーテのユダでさえ、主イエスのもとに戻ってきて、悔い改めをしていれば、主はその罪をもお赦しになった事ではないかとも思えるほど、主の愛は深いのです。


祈り

たとえ私たちの罪が緋のように赤くとも、雪のように真っ白くして下さる神を信じます。感謝しています。そのような考えられないほどの深い愛を持って私達を愛して下さっている事に心から感謝致します。アーメン  

文:森 宗孝


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 列王記第二の最後の章である。この最後の25章は南王国(ユダ王国)が滅亡し、ついにバビロンに捕囚となって連行されていくことが記されています。主に背き、偶像に仕えたために起こった悲惨な結末が語られています。主なる神は、ご自身によって創造された南王国の民の滅亡をどのような気持ちでごらんになられていたのでしょうか。そこのところから、ルカの19章41節で、イエス様がエルサレムに近づいて、都をご覧になって都のために泣かれたように、きっと父なる神も涙を流されたのではないかということが示されました。


 心が重くなるような列王記第二の25章である。でも、終わりのほうでは心に光がともされた感じになりました。27節でバビロンの王ネブカドネツアルの死後、彼の子エビル・メロダクが王になった時に、37年間捕囚であったエホヤキンを解放したことである。彼に優しいことばをかけ、いつも王の前で食事をし、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くしたのである。さらに彼の一生の間の生活費が保障されたのである。何という謙遜な王だろうかと感心させられました。


 列王記は、これによって一つの希望を私たちに告げていると言われています。それは、契約の民の将来を暗示するメッセージとしての意味を持つ。彼らは、ヨシヤ王の子孫としてのユダの王を持っている。もし彼らが、彼らを教えるために与えられた、王の歴史のこれらの教訓から学ぶなら、神は、なおかれらを用い、契約の民を再建される、という希望である。捕囚の民の間に生きた預言者は、そうしたメッセージを説いた。例えばエゼキエルは、エゼキエル書37:1-14で語っています。


「国は滅びたが、神は、それに新しい息吹きを与え、よみがえらされるであろう」

エゼキエル書37:1-14


「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

イザヤ書40:8


 天の父なる神様。列王記第二の多くの王たちの滅亡を通して語られたことは、真の神に立ち返ることでした。どうぞこの王たちの滅亡を通して、真の神に立ち返り続けることができますように導いてください。ときには、真の神をおろそかにしたり、又、立ち返ることをしないことが多々にある弱い私です。こんな弱い私でもあなたの御心に従って歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



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 列王記第二24章では、ユダの王国が最終的に滅び、バビロン捕囚が始まる様子が描かれています。


 エホヤキムの時代、バビロン王ネブカドネツァルがエルサレムへ侵攻しました。3節「ユダを主の前から除くという主の命による…」とあるように、略奪隊に攻められ状況は非常に厳しいものでした。そして、エホヤキムの子エホヤキン王もまた主の目に悪を行い、神の裁きを避けることができませんでした。彼が王としてふさわしくない行いを続けたため、バビロンのネブカドネツァル王はエルサレムを包囲し、エホヤキンは降伏しました。彼と共に多くの貴族や指導者、技術者、戦士たちがバビロンに捕囚として連れて行かれ、ユダには貧しい人々だけが残されました。


 この時、エホヤキンに代わり、ネブカドネツァルはゼデキヤを王として立てます。しかし、ゼデキヤもまた、主の目に悪を行うことをやめませんでした。神に従わない生き方を続けたため、最終的にはバビロンに対して反逆し、さらなる悲劇をユダにもたらすことになります。


「実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、の怒りによることであったのである。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」20節


 列王記を通して、国王の行動が国全体に大きな影響を与えるということです。国全体が一人のリーダーの選択に左右され、庶民がその結果として苦しむことがあります。現代でも、政治的リーダーの決定が戦争や対立を引き起こし、多くの人々が悲しみや痛みを経験することを思い出させられます。


 今でもイスラエルの地域で続く紛争は、何世紀にもわたる宗教的、政治的な対立の結果ですが、神さまは歴史を通して示し続けておられるのでしょうか。もしすべての人々が神さまの愛と平和の教えに従い、隣人を愛することができれば、真の解決策がみつかり世界に平和が訪れるでしょう。


愛する天のお父さま

 歴史を通して今もなお私たちに語りかけてくださっていることを感謝します。ユダの王たちがあなたに従わず、偶像に心を奪われた結果、彼らが受けた裁きの重さを思います。どうか、私たち一人ひとりが日々の生活の中であなたに忠実に従う者となれるよう導いてください。

 今、この世界で起こっている争いや対立を見るとき、しばしば無力さを感じます。しかし、あなたの愛と平和に従うことで、小さくても確かな変化をもたらすことができることを信じています。どうか私たちに知恵と勇気を与え、愛を持って隣人に仕え、平和を広める者として用いてください。

 どの時代でも、どの国でも、あなたの愛が人々の間に浸透し、平和と和解の実が結ばれますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


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