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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 22章は善王ヨシヤの登場である。彼は、八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。ヒゼキヤ王に続いて、ヨシヤ王も、「主の目にかなうことを行い父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」と2節で述べられている。


 主の宮で工事をしている時に律法の書が発見された。ダビデ王は五人の使者に命じて女預言フルダのところに行って律法の書の解説を依頼した。ここで言う律法の書とは「モーセ五書」ではなく、申命記のことだろうと言われているそうです。ちなみに、「モーセ五書」とは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つの書である。ヨシヤ王の改革は「申命記改革」とも呼ばれているそうである。


 11節の御言葉に心がひびきました。

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」

それは、ヨシヤ王自身が律法を守っていなかったことに気づき、衣を裂いて悔い改めたということです。そして、人々を集めて、民のため、ユダ全体のために、主を求めよ、と命じたのである。さらに、ヨシヤ王は将来のわざわいをもおこらないように、徹底した宗教改革を始めるのでした。主にたいするヨシヤ王の謙遜さが漂ってくる思いでした。


 女預言者というのに今まで注目していなかったけど、聖書で女預言者と呼ばれている女性は11人いたと言われています。そのうち神の預言者としての代表者と言える三人の女性は、フルダ、イザヤの妻、アンナでした。特にこの22章にでてくるフルダは聖書知識と神との霊的関係において優れていて、すべての人の模範とも言える敬虔な女性であったと言われています。神は、男性と同様に女性の中からも預言者を選ばれます。神ご自身の目的を達成するために、思いがけない人々を用いられるということです。そのためには私たちが、神に謙遜になり、神に忠実に従っていくことではないでしょうか。



 神の前にへりくだるヨシヤの信仰の深さに胸がうたれました。自分の信仰が問われるところであります。十字架の前にどれだけ自分の罪を告白できるか問われるところでもあります。主は、私たちのすべてをご存知です。私たちの告白を待っています。どうぞ小さな罪から大きな罪までを十字架におくことができますように、一歩踏み出せる勇気を与えてください。感謝し、委ねて、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


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 ヒゼキヤ王の後を継いだマナセは12歳で王となりました。まだ若過ぎて分別がつかなかったのか、側近に悪い者がいたのか、理由は定かではありませんが、彼はとんでもなく悪い王でした。

 

「彼は父ヒゼキヤが打ち壊した高き所を築き直し、イスラエルの王アハブがしたように、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像を造り、天の万象を拝んでこれに仕えた。こうして彼は、主がかつて『エルサレムにわたしの名を置く』と言われた主の宮に、いくつもの祭壇を築いた。」(3,4)


 マナセは、壊れていた祭壇を築き直しました。しかし、とんでもないことに、その祭壇は、バアルのための祭壇でした。8日の礼拝メッセージの中では、主のための祭壇を築き直すことが語られましたが、この章では、バアルの祭壇を築き直すという話です。

 私たちが築いている祭壇は、主の祭壇なのか、バアルの祭壇なのか、同じ祭壇でも全く違うものです。


 私たちが築くべき祭壇は、主のための祭壇です。罪を取り除いてくださるイエスの十字架、それゆえに自らを最高の捧げものとして礼拝するための祭壇です。

 この十字架と礼拝を意味する祭壇を、自らの存在の真ん中に堅く据えたいと思います。ゆめゆめ、バアルの祭壇を築き直すことがありませんように。


天の父なる神さま

 私たちが、十字架と礼拝を意味する祭壇を、存在の真ん中に、人生の真ん中に堅く据えることができますように。そして、私たちが祝福の源として整えられ、その使命を果たすことができますように。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 

                              文:関真士


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『バビロン捕囚の布石』

 

 ユダヤ王ヒゼキヤは死にかかっていたにもかかわらず、主の恵みで寿命を15年伸ばして下さった。この事が起こったのは、恐らくアッシリア軍が数々のユダの都市を攻め落とし、いよいよエルサレムに迫ってくる紀元前701年、もしくは直前の出来事であったと推測します。 ヒゼキア王が亡くなったのが紀元前686年なので、彼の寿命を主が15年伸ばしたとありますので、ほぼ間違いなく、エルサレムにアッシリア軍が迫って来た時の出来事でしょう。

6節「わたしは、あなたの寿命にもう15年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。


 そのように、時代背景を考えると瀕死の床にあったヒゼキア王が、アッシリア軍のエルサレム攻撃から神殿を守れるようにと寿命を伸ばしたのは、主の配慮だった事がハッキリとします。


 人の命と時間をコントロールされる神。 寿命を伸ばす事は、神のみわざとして理解できますが、日時計の影を十度後に戻されたとあるので、果たしてこれが何時間に当たるのか、数時間なのか半日近いのか、分かりませんが、いわば地球の回転を止められて、数時間前の状態に戻されたわけですから、大変な事だと思うのです。創造主たる神ですから、それはできると言ってしまえば、確かにそうですが、大変な事をヒゼキア王は主に求めたのですね。 しるしを見せて欲しい、これは私達、信者の中にも潜む願望ではないでしょうか。


 信仰、Faithには強弱があると思うのです。私たちの多くはしるしを見れば信じますという信仰ではないでしょうか、十字架のイエスに向かって、神の子であるならば自分自身を十字架から救ってみろと叫ぶのと同じ弱い信仰です。それに比べてカペナウムに居た、主イエスの癒しを頼った百人隊長、自分のしもべが病気で死にかけていた(ルカ7章)主イエスのおことばだけを下さいと願いました。主イエスへの信頼があまりにも大きいので、主イエスは、イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありませんと評価された強く、深い信仰でした。 そのような目で見ると宗教改革まで手がけたヒゼキア王自身の信仰は、どうだったのだろうと思ってしまいました。しかしエルサレムを守る必要があったので、そのリーダーとしてのヒゼキア王を癒して、主のみわざをユダヤの民に確認させる必要があったのだろうと思うのです。


祈り

 主よ、私の弱い信仰を強めて下さい。しるしを求めたいという気持ちがありますが、主のみことばが聖書を通じて下さる事を信じます。どうかこれからの日々の生活の中で、光が示され、その中を歩むことができますように、弱い自分を助けて下さい。 アーメン  

文: 森 宗孝


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