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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 この章では、冒頭から、20歳で王となり、エルサレムで十六年間王であったアハズ王は、その父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行わずとあります。


 異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもに日の中を通らせることまでしました。(3節)又、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ぺカが戦いのためにエルサレムに上って来た時に、アハズは、アッシリアの王に、「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください。」と懇願してしまいます。(7節) 

 アッシリアの王に銀と金の贈り物を送ったので、アッシリアの王は彼の願いを聞き入れ、ダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕らえ移し、彼はレツィンを殺します。(8、9節)アハズは、神のしもべであって、アッシリアの王のしもべではありません。 神の目には、アハズが主をないがしろにしたとしかうつりません。

 この30年後(BC701年)には、アッシリアの王セナケリブがエルサレムにやって来て包囲し、陥落させる寸前になるまで追い込むことになります。


 アハズ王の中に、その場しのぎの解決か対策を講じようとする私たち人間の姿をみます。偶像礼拝や、忌み嫌うべき慣わしにまどわされず、信仰に堅く立ち続けることが出来るのは、一方的な主の恵みであることを忘れず、わが主から目を離さないで、信仰から信仰へ進んでいきたいと願います。


主の祈り:アバ父、主よ、今日の御言葉を感謝します。あなたが私たち一人一人にご計画された道のみが、最良の道であり、それ以外に道はありません。 わかっていても、その道からそれてしまいがちな私たちを、いつも見守って下さっていることを感謝します。 

 救い主イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン


 列王記第二15章は、南ユダの王国と北イスラエル王国の王たちが主によってさばか

れるということが記されている。北王国の王たちは主に背いたために無惨な最期をとげ、南王国の王も晩年に高慢になったり、敵国から攻められたりしました。


 北王国イスラエルでは、約30年の間に、ゼカリヤ、シャルム、メナヘム、ぺカフヤ、ぺカ、ホセアと目まぐるしく王が交代します。そのほとんどが謀反によります。そして、ホセア王を最後に、記元前722年にアッシリアに滅ぼされます。

北王国イスラエルの王たちは、主の目の前に悪を行い、ヤロブアムの罪(偶像崇拝)から離れなかったのである。


 南王国ユダでは、ウジヤ王の後、その子ヨタムが王になります。彼は、父同様に主の目にかなうことを行った。だが、父と同じように高き所は取り除きませんでした。高き所とは、偶像礼拝が行われていた場所のことです。そこを破壊せず放置しておいたので、民はなおも、その高き所でいけにえを捧げたり、犠牲をそなえたりしていました。これは律法に違反したということです。

 このヨタムが行った良い業の一つは、主の宮の上の門を建てたということです。解説によると、神殿の北の門を再建したということである。これは主を礼拝することを促すために行われた工事でした。彼は、多くの良い業をおこないましたが、大切なことが抜けていました。神を第一に生きないで、神を愛せず、神を信頼しなかったのである。

 ここで語られたことは、私たちがどれだけ良い業を行っても、神を第一にせず、神を信頼せずに、神に従うことができなかったら、すべてがむなしいものになるということです。


 天の父なる神さま。私たちが行った業はすべてあなたからの恵みからでたものです。絶えず、神を第一にして、神を愛し、神に信頼し、神に従っていくことができますように導いてください。感謝して、委ねて、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


「あなたは、エドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえて災いを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」(10)


 ユダの王アマツヤは、エドムに勝利したことで高ぶってしまいました。何の理由もなく、イスラエルの王ヨアシュに戦いを挑んだのです。この御言葉は、その時のヨアシュのことばです。

 危機の時には、神の前にへりくだり助けを求めるのですが、調子が良くなると途端に高ぶって神から離れていくというパターンが繰り返されるのが人類の歴史です。


 一に謙遜、二に謙遜、三四がなくて、五に謙遜。とにかく謙遜であり続けることです。

 しかし、高慢になるのが私たちの罪性です。バベルの塔が心の中にだんだんと高く積み上がっていくのです。

 謙遜であるということは、高慢ではない状態である事ではなく、自分がいかに高慢であり、高慢になりやすい者であるかということを自覚しているということです。


 謙遜という御霊の実を結ぶ者でありたいと心から願います。


天の父なる神さま

 どうかどんなに祝福を受けても、高慢にならずに、謙遜であり続けることができますように。そのために、自分の中に高慢の塔が築き始められたときに、その自分に気づき、悔い改めることができますように、聖霊が私たちを助け導いてください。

  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                                文:関真士



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