top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

『預言者エリシャの勝利の矢』


 この章は北イスラエル王国の話ですが、南王国にも、ほぼ同時期に同名のヨアシュ王がいるのでこんがらがります。北王国11代目の王ヨアシュ(在位16年)とその父エホアハズ王(在位17年)の時のことです。どちらも主の目に悪であることを行ったとあります。北王国はさらに北方のアラムに虐げられて、エホアハズ王の時には、騎兵50、戦車10と歩兵1万の軍隊しか残されていなかったとありますから、相当の打撃をアラムから受けていました。


 このような国家的な危機の時に、イスラエル王ヨアシュは助けを求めて、死の病を患っていた預言者エリシャのもとに行きました。預言者エリシャはヨアシュ王に窓を開けて「主の勝利の矢」を射なさいと命じます。(17節)この章では、果たしてこの勝利の矢、しかも主の勝利の矢とはどのような預言的意味を含んでいるのかを考えてみようと思います。


 創世記9章のノアの箱舟の中で、洪水の後に神はノアとその息子たちと契約を結びます。 それは「再び、大洪水の大水によって地を滅ぼすことはない」という約束で、創世記9章13節「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。」と神がおっしゃった、この虹とはRainBowつまり、雨の矢という意味です。神は雨の矢を大空に放って約束された。私たちの島、このマウイ島、特にKaneoheは雨が多い場所ですから、虹が良く出てきます。二重虹も何度も見ることができます。神の約束をいつも思い起こす時ですね。


 主の勝利の矢、主の約束と理解すれば、主のみことばである聖書、この旧約時代では律法に信頼をおきなさい、主のことばを放って、ことばに立って敵対するアラム王と闘いなさいという事ではなかったかと思うのです。そのことばにヨアシュ王は従うことは、確かに従ったのですが中途半端。3回矢を放って、充分と思い込んで辞めてしまいます。その結果、アラムとの戦いには3度の勝利を得ますが、やがて北イスラエル王国は、次に台頭してきたアッシリア帝国によって滅ぼされてゆきます。中途半端な信頼では、主が喜ぶことはないのです。


 ちなみに、罪というヘブル語の言葉には「的外れ」という意味があるのですが、今までは弓矢をうつ目標が神ではない、他の目標に向かって自分の矢を放つという事が罪と理解していたのですが、それだけではなく、神に向かって、正当な目標に向かって矢を放っても、途中で矢の力がなくなって、目標に届かずに落ちてしまう、これも罪だと読んで、なるほど中途半端な信仰も罪のうちなのだと気付かされました。


祈り

 主よ、どうか私達の信仰が、中途半端に終わる事なく、主の勝利の矢を力一杯振り絞って、十字架の主イエスに向かって放つことができますように、私たちに信仰の力を与えて下さい。アーメン

文: 森 宗孝


『南王国ヨアシュ王』


 列王記って分かりにくいですね。確かに、ユダヤの歴史書ではありますが、全体は、特に預言者側から見たユダヤ民族の歴史で、ダビデ王の死に続くソロモンの即位から始まって、南王国ユダの最後の王エホヤキムのバビロン捕囚までの約120年間の歴史。南と北に分裂したイスラエル民族の歴史です。この第二列王記は特に、離散の書です。故意の罪、その罪人の道は険しい、特に神に選ばれた民が、神の意向に沿わない道を歩むと審判にあう、離散の目にあう事が記された、悲しみの書でもあります。


 さて、この書(11〜17章まで)での年代の数え方は、南王国ユダの王の話をするのに、重複して、その時の北王国イスラエルの王の年代を記しています。ここ12章では北王国エフー王の第7年として対比して表しているので、北王国の歴史ではない事に気を付けましょう。これはただのユダの歴史ではなく、神の審判と恩恵の歴史で、この南王国ヨアシュ王は、祭司エホヤダのおかげで7歳で王になり40年間にわたる在位の間の出来事です。この王の恩師である祭司エホヤダの生きている間は、主の目に叶うことを行ったが、エルサレム神殿以外の所で、いけにえを捧げたりする風習を辞めさせるもう一歩が足りなかった。

 善王と言いたいが、完全な⭕️ではなくて、🔺の評価の王と言って良いかもしれません。


 このヨアシュ王が40年間の治世の間に、神殿を新たにすることを志し、その修理に務めたこと、しかし祭司エホヤダの死後にユダの首長たちの要望を受け入れて、アシュラと偶像礼拝を許してしまう。その結果として神の審判として、アラム王の侵略を受けて、エルサレムの宝物倉から全ての金をアラム王ハザエルに与えてしまった事件、そしてやがて、王は謀反によって殺されることを淡々と記されているのが12章です。この章から霊的に何かを受け取るように思えないのですが、もう少し噛み締めてみましょう。

 

 一つの民族が南北に分かれる、なんだか韓国と北朝鮮のことを思い浮かべた、悪王の代表のような北朝鮮の独裁者、金正恩タイプの王が北イスラエル王国には続いて現れた、北王国は、国として勢力を増した時もあったけれど、偶像礼拝がはびこり、まずはアッシリア帝国によって滅ぼされる、南王国は、神の恩恵でアッシリアの侵略を持ち堪えたものの、その後、やはり偶像バアル礼拝に陥り、神の審判であるバビロン捕囚となってゆく。しかしこの分裂の中でたくさんの預言者たちが送られて、悔い改めのみことばを残してゆく歴史が示されている。


 このヨアシュ王と祭司エホヤダのことは、歴代誌第二24章前後に、もっと詳しい記述があるので、同時に読んでみて下さい。


祈り

南ユダの歴史、主に背く姿に私たちの姿を見ます。主イエスを信じたにもかかわらず、この世の肉欲、お金や地位や権力に魅惑を感じてしまい、主の臨在を忘れてしまうのです。どうか繰り返し、悔い改めをしながら、主の戒めを心に刻むことができますように、聖霊の助けが常にありますように。アーメン 

文:森 宗孝


 これでもかと思わされるアタルヤの残虐きわまりない行動にことばがでない。自分の息子アハズヤが殺されて、彼女が王としての実権を握るために一族全員を殺すということは何と恐ろしいことでしょうか。そのようなことができたのは、彼女の中にはあの母親イゼベルの性質が宿っていたからである。イゼベルはおおくの主の預言者を殺したのである。そしてアタルヤも、又、目的のためには手段を選ばない母親と同じようになったのであります。子は親の背中を見て育つということがぴったりですね。


 しかし、悪女アタルヤが王としての権力を振るっている中で、たった一人のアハズヤの息子ヨアシュが、ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバによって助け出されたのである。そして、主の宮に六年間身を隠していたのである。ここのところは、幼子モーセのいのちがエジプトの王パロの娘によって守られたことが連想させられます。やはり、ここでもヨアシュのいのちが守られたのは、主のご計画であったのです。


 アタルヤは南王国で唯一の女王であり、ダビデの家系ではない唯一の王です。もし、アタルヤがヨアシュを殺していたら、ダビデの家系は完全に途絶えていたことでしょう。そして、約束のメシヤ誕生もなくなっていたでしょう。しかし、神はそれをお許しになりませんでした。そこで主なる神は、忠実な祭司エホヤダとその妻エホシェバを用いられたのである。彼らはダビデの家系からメシヤが誕生する約束を知っていたのだと思います。だから、必死になってヨアシュを六年間も守ってきたのでしょう。


 アタルヤが殺されて、ヨアシュが王となった時に、民衆が立ち上がりバアルの神殿に行ってすべてを破壊したのである。これが民の一致ではないでしょうか。みなが一つになることは平和をつくる橋をかける基になると思います。教会でも互いに愛し合うならば教会への成長、平和の架け橋につながっていけると思います。



 愛する天の父なる神さま。御名をほめたたえます。私たちが窮地の中にいてもいつも見守っていてくださり、いろんなかたちで助け人を与えてくださり感謝します。どんなことがあってもあきらめずに、たえず祈り、たえず愛し合い、助け合っていくことができるように導いてください。感謝して、ゆだねて、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



bottom of page