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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「ミカヤは答えた。『主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。』」(14)

 

 アハブ王とヨシャファテ王に召喚された預言者ミカヤは、400人の偽預言者とは違い、王たちに主のことばを告げました。アハブは、ミカヤがいつも悪い事ばかり預言するので彼を嫌っていましたが、今回も主のことばは耳に痛いものでした。

 王という立場にある者が、自分の耳に心地よいことばだけを求めるなら、まさに「裸の王様」となるでしょう。耳に痛いことばでも、その主のことばに耳を開くことは何よりも大切なことです。


 ミカヤは捕えられ迫害されましたが、主のことばは、その通りになりました。アハブは戦士しました。

 ただしアハブは勇敢に戦ったのではなく、王の服を脱いで自分が王であることを隠したのです。それが仇となって彼は、たまたま飛んできた矢に当たって死にました。

 アハブの生涯を象徴している最期です。妻イゼベルにいいように支配され、預言者のことばに耳を傾けず、彼は王としての責務も服と一緒に脱ぎ捨てていたのです。

 

 自分は、耳に痛いことばでも、しっかりと聴くだけの心を持っているだろうか? プライドが邪魔をすることはないだろうか。自分に良いことだけを言ってくれる人を近くに置いていないだろうか。主の御前に心を探られます。 

 アハブは、最悪の王様でしたが、そこにリーダーとしての反面教師を見ます。神の祝福とは、このようにして失っていくものだということがよく分かります。

 自戒をしていきたいと思わされます。


 天の父なる神さま

 アハブは、神にそむいて悪い王様になってしまいました。その姿に自分自身の姿を見ます。どうか、主を畏れ、主に聴き従う自分でありますように。主の御言葉に耳を開いていることができますように、聖霊が励まし導いてください。

  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


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『悪妻イザベル』

 

 イスラエル王アハブにとって富が彼の偶像だったようだ、お金によって宮殿の側のナボテから彼のぶどう畑を買い取ろうとしたが、ナボテはイスラエルの中で数少ない、神を敬い、ババアルに膝をかがめない残された者(レムナント:参照19章18節)の一人であったので、王の申し出を拒否する。


 イザベルは卑劣な策を用いて、ナボテを石打ちの刑で殺し、畑をアハブは手に入れるが、預言者エリアによって「あなたの子孫は除き去られ、悪妻イザベルは犬に食われる」とまで言われ、偶像につき従い、忌まわしいことを行った罪を指摘される。


 ところが、ここに理解し難い、神のあわれみが描かれている。これだけの悪事を重ねたアハブ王に対して、29節後半「彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」アハブ王自身は許されてしまうのです。なぜですかと思わず主に問いかけたくなる場面です。


 27節「アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。」とあります。心からの悔い改めを、すぐにしたのですね。ここに私たちの希望があります。過去の罪、過ちが主から赦されるのは、私たちが心から悔い改めをして、それを態度で表し主の前にへりくだる時に、全能なる神は、私たちを赦してくださるのです。29節前半「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。」それでアハブ王が生きている間はわざわいを下さないと主が赦されたのです。この赦しは今でも私達にも適用される主のあわれみです。


祈り

感謝します。私たちの罪もへりくだって、悔い改めする事によって、緋に包まれた罪の身体が、真っ白い、一点のかげりもない身体に改めて下さる、主のあわれみに心から感謝致します。 アーメン  

文:森 宗孝


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『聖絶』


 イスラエルの歴史は常に敵との戦いに明け暮れている。聖なる民として選ばれた事は、同時にこの世においては、常にその信仰を試される事になるのだろうか。今のイスラエルも、周りには敵対するアラブ連合諸国、しかも石油によって豊かな国に囲まれている、それゆえに生き残るための努力、情報能力や戦闘能力が優れているのかもしれない。しかし、聖なる民に求められていることは、実は主に寄り添って、主の戒めをこの世に示すこと、地の全ての部族を祝福する事にあると聖書は示している。


 20章で示されているのは、13節と28節「そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る」どのようにして主を知るのか、アラム王ベン・ハダドが送り込んだ大軍に対して、考えられないような少数のイスラエル軍によって打ち破る事で、主によってそうなった事を知る。しかしながら、預言を受けて、実際に、そのようなアラム軍に打ち破ってもイスラエル王アハブは、自分の裁量で事を進めてしまうのです。


 アハブ王の弁護をするつもりはありませんが、なんと難しい事を主は求めるのでしょうか。私達の抱える現実の問題は、なんとか自分で手を打たないと、とても解決できるようにはいくら考えても方法はありません。しかし自分の知恵に頼っても、真の解決とならない事も知っています。そのような試練の時こそ「わたしこそ主であることを知る」機会なのかもしれません。


 このアハブも、大国のアラム王ベン・ハダドの命を救う事によって北からの脅威を解いて、自国の安全を確保しようと思い立ったのだろうと思います、確かに敵に塩を送るという出来事も、聖書は記しているわけですから。しかし、この時の主の命令は「聖絶」せよ、との厳しいみことばだったのです。


 逆に、イスラエル民を聖絶しようとする事件は、何度も起こりました。近年ではホロコーストやハマスの目標などがありますが、エステル記にはユダヤ人の敵であるハマンは、ユダヤ人を根絶やしにする事を法令にして実行しようとした記録があります。聖絶という目的は、根を取り去って将来の危険から身を守るための手段です。


 私たちは、簡単に自分の価値判断で「聖絶」を見てしまいますが、見る目が異なる、永遠なる神は聖なる民としたイスラエル民族の存続を守るために厳しい命令を出される事もあると信じます。


祈り

私達が知っている主、恵みに満ちた愛なる神であるお方が、なぜ聖絶という厳しい命令を出すのかと思ってしまう事がありますが、愛なる神は、同時に義なる神でもあります。罪を裁かれる神であることも忘れないように導き下さい。アーメン

文: 森 宗孝


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