top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

『御霊の初穂』


 今年のクリスマスイブ、この日に与えらたデボーションでローマ書の最高峰である、いつまでも輝きを示す8章が与えられた事に心から感謝しております。デボーションを随筆することへのプレゼントを頂きました。主の誕生と、御霊を与えられ、新しいいのちを頂いた私たちを祝う、この8章に感謝します。


 はたして、なぜ神は私たちを救われ、復活の永遠の身体をいただけるのでしょうか。ただ単に私たちを愛しておられるからでしょうか。愛の他に何か、特別な目的をもって私たちを、救われるのでしょうか。

29節「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」ここに答えがあります。主イエスが長子となるのが最終目的で、そのために私たちが永遠の身体が与えられて、長子イエスに兄弟として、一緒に仕えることがゴールなのです。そのために、私たちの緋く染まった罪を、白くして、聖なる神が裁く必要がなくする必要がありますが、私たち自身の努力で、この罪を消すことはできません。

1節「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

罪がある身でありながら、まるで主イエスのうしろに隠れるようにすれば、罪に定められることがないという大変な約束です。


 主を信じても、未だ弱い存在の私たちに御霊を与えてくださり、助けてくださり、いまだに朽ちる身体にとらわれている身に、希望をくださったのです。しかし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。とも記されていることも忘れてはなりません。この与えられた御霊によって導かれる人はみな、神の子どもとなり、御霊の実である、愛、喜び、平安が主から与えられ根付き、隣人に対しては、寛容、親切、善意をもって接し、自分自身に対しては誠実さが増しゆきます。そして主イエスのような柔和な性格にかえられて、反対する肉の思いに対しては自制できる力が神の子として継承して実ってゆくのです。(ガラテア5:22〜23)


 罪の性質は、腐敗(corruption)であり、分断(disruption)をもたらします、そして肉体に溜まった内なる腐敗は、神との関係を分断しながら、やがて爆発(eruption)して外に表されてゆくのです。しかし主イエスの霊である、御霊を受けますとまず、罪の原因となる神との分断がまず正されます。私たちが神を離れて罪の状態であったのですが、御霊がその分断した傷を癒し、生ける神の霊が、死んでしまっていた私たちの霊に代わって、神に至る道を開いて下さったのです。

ローマ8章11節「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者のの中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだもいかしてくださいます。」


 もはや、石の板に書かれた律法ではなく、私たち一人一人の心に刻まれた神の律法によって、主イエスを兄とし、父なる神をお父さんとする神に似せられた子供として、三位一体の輪の中、最後まで残る愛の輪のなかに加えられてゆくという希望をこの8章は語っています。主はこの世に住む私たちの弱さを覚え主の御霊、聖霊を送って下さいました。それは19節「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」という原罪にまみれた私たちを救うためでした。


祈り

主イエスは、ご自分の御霊をすべての者に与えられるために、この世に遣わされ、神の子羊として十字架にて、私たちの罪の贖いを完了し、聖霊として私たちを常に助けてくださる長男として、弟、妹に手を差し伸べる御霊の初穂としての存在となられたことに感謝いたします。 アーメン 

文: 森 宗孝


『律法の支配』


 なぜ神は、誰一人として人間が守れない律法を与えたのかと聞かれたことがあります。それに対して明確な答えを出すまでの知恵をもっておりませんが、この質問は、なぜ楽園であるエデンの園の中央に、食べてはならない善悪の知識の木といのちの木を生えさせたのか。という質問にも似ていると思いました。 ”神のみぞ知る”と言ってしまえばそれまでですが、もう少し考えてみましょう。


 律法は、ちょうど幼子が自転車に乗る練習をしてひとり立ちできるまでの間に、自転車につける補助車の役目と聞いた話を思い出しました。思えはイスラエルの民は、奴隷の状態から解放されはしたものの、荒野での試練をうける直前にモーセによって、もっとも重要な律法の十戒が与えられたわけです。さらにお互いの家族を守り、財産を守るための、いわば民法 Civil Law、これは重要な掟を守り、集団生活をするのに必要なルールとしてイスラエルの民に与えられのです、それが十戒も含めて、613あったとイスラエルの民は定義しました。


 パウロは、この7章でさらに明確に、心では神の律法に仕え、肉の身体は罪の律法に仕えていることを説明してくれました。さらに律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だ。死んだらこの律法は適用しないことを示し、私たちはキリストを通して罪の律法に死んで、新しく神の律法によってよみがえったと伝えてくれます。自分の理解では、私たち自身は原罪をもって生まれてきているので、律法を守り通すことは自力ではできませんので、完全に罪のない、しかも神の律法を最後まで従順にまっとうした主イエスを信じることによって、その信仰ゆえに律法を守りきれなかった罪も赦されるのだと思います。なんと壮大なパウロの説明でしょう。


 例えば交通ルールの速度制限で65マイルと設定、これが律法としましょう。これに対して、他のドライバーもスピードを守っていないと自分で判断し決めてしまい、結局スピード違反で走りつづける私たちの自分中心となってしまう姿を描いています。もしもドイツのアウトバーンのように制限速度、律法がないとすれば、好きなだけの速度で走り、なんの罪意識も感じないことでしょう。しかし律法である65マイルがあるために、この律法は他のドライバーの安全をも考えて作り出されと事を知りながらも、守らない自分がいる、罪の自分がいると、もしもパウロが今の時代で車の運転していたら、きっとそう説明してくれたかもしれません。隣人を愛せと律法で言われても、自分の基準で、あの人意地悪だし、クリスチャンではないし愛することはできないが、うちの子供に優しくしてくれる、あの隣人であったら愛せると自分の判断で聖なる律法を解釈してしまう自分たちの心のうちをパウロは表しているのでしょう。エデンの園の善悪の木は、神の善悪から、人が自分自身の判断で善悪を決めてしまう実でした、それを食べてしまった結果なのです。


 この7章は、律法に縛られているユダヤの民、主を信じたいが律法が気になって、妨げられている者たちに、主イエスによってその鎖から解放されたことを深い論理によって、説明された箇所です。


祈り

私たちは律法を成就された、たった一人のお方、神の御子イエス・キリストにすがり、信じることによって、主イエスが盾となってくださって、私たちの罪が赦された事を心から感謝します。アーメン

文: 森 宗孝


「罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」―23節―


 罪の報酬は死。神の賜物は永遠のいのち。この二つのことについて、クリスチャンである私たちは誰もが知っていることだと思います。罪を犯せば当然の報いとして死に至ります。だが、神から、イエス・キリストによって私たちに与えられた永遠のいのちを持つことは、神からの賜物と受け入れることであります。そのことを知り、信じることが私たちの務めであります。


 そしてパウロは、11節で、「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」と語っています。 認めることです。


 さらにパウロは、16節で自分自身を奴隷として献げて罪の奴隷となって死に至るか、あるいは従順の奴隷となって義にいたるかと述べています。つまりだれが主人(サタンか神)であるかによって、結末は全く違ってくるということです。以前は私たちは罪の奴隷でしたが、その罪はキリストとともに死にました。今や私たちは神の奴隷とされたのです。縛られることのない自由な神の奴隷とされたのです。このことを信じ続けていくことです。信じるときに内なる聖霊がはたらいてくださるのです。そして、パウロは、自分の手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさいと述べています。


 この箇所を読んでいて、ずっと以前に関牧師が述べられたことが思いだされました。「自分がなかなか抜けだせない罪、悪習慣、それらは、もうすでにキリストとともに十字架につけられたことを信じていくことです。自分の意思力が弱いからではなく、この御霊の働きの中に入っていなかったからです。神が用意されている義の賜物を受け取っていないからです。」


 これからは、その悪習慣のことが脳裏に焼き付いてきたときには、これらのことは十字架につけられたんだということをしっかりと信じて歩んでいこうと思わされました。 



 天の父なる神さま。

私たちはいろんな失敗をして、自分の意思の弱さに塞ぎこむことが多々にあります。そのような時には、御霊の働きの中に入っていけずに、ましてや、義の賜物を受け取ることすらできません。そのときには、私たちを憐み、義なる道へと進むことができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


bottom of page