top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下
hccnichigo

 列王記は、ダビデ後の治世からバビロン捕囚までの物語が記されています。歴代の王たちの歴史物語です。その他の様々な王様列伝と違うのは、歴代の王に対する評価が、主に従ったどうかで判断されていることです。たとえ領土を拡大し、経済を発展させ、インフラを整備したとしても、主に逆らっているなら、それは悪い王とみなされます。そして悪い王は、一時的には繁栄しても最終的に国を滅ぼします。

 アメリカでは大統領選挙が注目を浴びていますが、国に真の平安と繁栄をもたらす良い指導者とは、主を畏れ、主の御前に祈る者です。私たちは、この国のために祈る者でありたいと思います。

 

 1章では、ダビデ王の跡継ぎ問題が勃発します。誰が王座につくのか、駆け引きが行われ緊迫感が伝わってきます。アドニアが王になるのか、ソロモンが王になるのか、どちらも必死です。

 そして関わる人物は、それぞれ策を練って動きます。しかし、神の計画の中ではソロモンが王になることが定められています。人間も必死に動きますが、その人間の動きさえも主の計画が成るために用いられているのです。


 そして最後の節は「ソロモンは彼に言った。『家に帰りなさい』」(53)です。

 アドニヤは、本来王になるべき人物ではありませんでした。「家に帰りなさい」とは、本来の分にあった居るべき場所に居なさいという意味でしょう。私たちは、分を越えてはなりません。神に与えられた、それぞれが置かれた場所があります。

 人間の欲、罪が働くと、自分の本来の居場所と本分を見失ってしまいます。適材適所と言いますが、神の計画の中で、自分の本分、居るべき場所を見い出していきたいと願います。


天の父なる神さま。

 あなたは、私たち人間の様々な思い、動きさえもすべてを用いて御心を成し遂げてくださるお方です。計り知れないあなたの計画を感謝します。

 私たちが、あなたが置いてくださる場所で、与えられた本分を受け入れ、全うすることができますように導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


『再びガリラヤ湖畔で』


 いよいよ最後の章となりますが、ペテロが一番初めに主イエスに出会ったのも、このガリラヤ湖でした。ルカ5章では主イエスの指示通りに網をおろして、おびただしい数の魚をとれた後に、あの時、シモン・ペテロは「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」と畏れを持って、平伏して主イエスに接していたペテロに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われ、全てを捨ててイエスに従ったとあります。


 この21章では、復活された主イエスが再び、このガリラヤ湖で始まった弟子訓練がガリラヤで終わるのです。ペテロたちに現れて念を押すように、わたしの民、わたしの羊の面倒をこれから見るように、羊を飼いなさい、牧しなさい、人間をとる漁師になりなさいともう一度告げる場面です。


 初めて会った時のペテロが平伏していたのに対して、この時、ペテロは、わざわざ上着をまとって、喜びのあまり、飛び込んで岸辺の主イエスに会いに行っています。畏れ多い神の御子としての主が、ペテロの愛する私の先生となっていた姿が目に浮かびます。 主イエスは、ご自分を否定した、このペテロに対して3度も繰り返して、わたしを愛していますか。と問いただします。余談ですが、確かに、この3回の愛と言う言葉は、ギリシャ語では異なった言葉(神への愛から兄弟愛)で書かれているのですが、自分が思うには、主イエスと弟子達はギリシャ語で話していたわけではないのではないか、当時はアラム語が日常会話だったようなので、ギリシャ語に翻訳された時に、深い意味として書かれたのではないかとも思うのです。


 とにかく、わたしを愛するかという質問は、弟子を代表するペテロに向かって語られていますが、他の弟子達も十字架刑に向かうイエスを捨てたのは、同じ事ですから、弟子達全員に向かってわたしを愛するかと尋ねているのではないかと想像するのです。主が弟子達に求められているのは、これからあなたたちが、わたしの羊である民の面倒を見るのですよ、わたしがあなたたちを導いたように愛をもって導きなさい。と心をこめて諭している最後の場面です。 


 岸辺で主イエス自らが朝食の用意をされました。

13節「イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

 この時に弟子達は、どのような事を思い浮かべたのでしょうか

 ガリラヤ湖畔での5千人の食事の場面だったかもしれません、またはエルサレムでの最後の晩餐場面だったのでしょうか。もしくは3年半ほど一緒に旅をした時の野宿しながら主と一緒にワイワイ・ガヤガヤと皆で食事した事を思ったのでしょうか。私たちは知っています、弟子達がその後、それぞれが心に聖霊を受けて力となり、殉教死しながらも主イエスの羊である信者の面倒を見るために、主の約束を果たすために、自分の生涯をかけて生きた事、やがて私たちも主イエスとこの弟子達とも会う事になっています。


祈り

 主が私たちを待っていていてくださり、食事を用意して下さる。どうか12弟子達に比べて、まだまだ信仰が弱い私たちも一緒に食事をする機会が与えられている事を思い、主イエスの戒めを守り、主イエスの羊を飼う牧者となることができますように、導いて下さい。 アーメン

文:森 宗孝


『ヨハネが書いた目的』


 主に愛された使徒ヨハネが、晩年になって(著作時期を紀元90年頃だとすると彼は90歳近い)この時期はローマからのキリシタン迫害が激化し、使徒達はすでに殉教死していた。離散した信者達の中には希望を失い、ユダヤ人信者は迫害から逃れるためにユダヤ教に戻ろうとする者達もいたようだ。すでにマタイ、マルコ、ルカの福音書は書かれていたが、ヨハネは、この迫害の時代にあって、本当の希望を信者達に与えようとして、死力を絞ってこの書を書いたに違いない。


 31節「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 自分達キリシタンのこの世での命、ヨハネの命も風前のともしびの中で、希望の光、生ける水、よみがえりであり真理への道である主イエスがメシア、救い主である事を信じる事が、永遠の命につながると力強く語っておられます。


 この20章は主が復活された日曜日の出来事、マグダラのマリアから主イエスの墓の石が取りのけられていると聞いて、走って墓に到着したペテロとヨハネたち。


9節「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。

 主イエスが私たち全ての人類の代表として、人類が犯している罪を、人類の審判として十字架の死にて贖われた事、そうして同時に私たちのために、罪が赦されただけにとどまらず、主イエスに在って、信じる者たちが栄光を着る為に復活されたのです。私たちが永遠の命を得るための復活でした。私たち現在の信者はどうでしょうか。主の復活の意味をまだ理解していないのではない、とここで問われているように思います。


 もしも、復活の主イエスが作り話であったとしたなら、この頃のユダヤ人にとって、証人としては認められない女性達が最初の復活の証人であったというストーリーは書かなかったはずです、なぜならそれは信頼できるとはみなされない時代だったからです。事実であったので、女性達が初めの復活の証人となっているのです。


 ユダヤ人達を恐れて、戸に鍵をかけて恐れている弟子達の真ん中に、突然現れた主イエス。さぞかしびっくりした事でしょう。その時に居合わせなかった、疑い深い弟子トマスのおかげで主イエスの復活がいかに弟子達の生き方に影響を与えたかが納得できる場面です。


29節「イエスは彼(トマス)に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。』」

 ヨハネも伝えたかったのは、”信じて命を得る事”、イエスの”信じる人たちは幸い”

信じること、信じることと繰り返し私たちに語りかけています。


祈り

 私たちは信じる事に始まり、主イエスを心に受け入れて、信じる事によって、主イエスのところに導かれて、永遠の命を得るのですね。信じるが全ての始まりで、終わりである事をヨハネが自分の生涯をかけて私たちに伝えたかった事に感謝致します。 アーメン

  文: 森 宗孝


bottom of page