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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 19章の聖書箇所はいつも自分に問われるところである。十字架は自分にとってなにを意味しているのかを深く考えさせられ、又、原点にもどれるところでもあります。


 「イエスを十字架につけろ」と叫ぶ群衆は自分の姿でもあります。又、ピラトのように群衆を恐れて罪のないイエス様を彼らに引き渡したことも自分の姿であります。さらに弟子たちのように逃げて隠れて、さらには、ペテロのように三度もイエス様のことを知らないというのも自分の姿であります。ですから私もイエス様を十字架にかけた一人だったのです。


 イエス様の十字架につけられた無惨な姿は私が受けなければならない罪の刑罰だったのです。しかし、イエス様は死とよみに勝利され、墓の中より三日目によみがえられ、今も、父なる神の右の座におられて私たちのためにとりなしの祈りをされておられるのです。そして、「主イエスを信じる者には永遠のいのちがある」と宣言されています。

イエス・キリストを信じて救われた私たちは、「十字架につけろ」という叫びから、「イエス様は罪のないお方です。イエス様は私の救い主です。」と声高々に叫ぶ者になりたいと思わされるところであります。


 イエスの苦しみは肉体の苦しみ以上に霊的苦しみがともなうものでした。なぜなら、私たちの罪を背負って死なれたということは、父なる神との関係が断絶されたということになるのです。父なる神は罪ある者とともにいることはできないからです。父なる神との親しい関係が罪ある者となった瞬間に断たれたのです。イエス様は、この霊的な苦しみがとても辛いことだったのです。


 26節、27節のところで、イエス様が母マリアの今後のことをヨハネに託すところが目にとまった。「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に『女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。』と言われた。それから、その弟子に『ご覧なさい。あなたの母です』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」これは、血こそつながってはいないが、霊につながった神の家族を現しているのである。十字架上のイエスさまが示された母への愛と思いやりであります。


 恵み深い神様。あなたは、たったひとり子をお与えになったほどに世を愛されたことに心から感謝します。あなたの愛をまだ知らない人々に、キリストの十字架の事実の出来事を世に知らすことができますように私たちを用いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


『ポンテオ・ピラトという人』


 この章ではイエス様が、ユダの裏切りにより捕えられ、ユダヤ属州総督であるポンテオ・ピラトの官邸に連れていかれる。ピラト自身がイエスを尋問後 出した結果が、38節抜粋「私はあの人(イエス)に何の罪も認めない」である。このポンテオ・ピラトに注目してみたい。


 ピラトはどのような思いであったろう。総督として、イエスを無罪釈放することもできたし、十字架につける権威もあった。ユダヤ人たちは、同じユダヤ人であるイエス様を釈放するよう望む、と思っていたのだろうか。良心はあったようだが、ピラトも弱い人間の一人である。ローマ帝国の法律に従わなければならない。群衆の意向を無視し無罪判決をすれば、上から(ローマ帝国)も下から(群衆)もたたき上げられ、暴動となる。この場をなんとか治めないと自分の政治生命が危うい。その結果、保身のために真理に背く行動をとる。


 イエス様に罪がないとピラトは確信しているのに、群衆の言いなりになり、バラバという強盗を釈放する。周りの人を満足させるために行動する。これは現在の世間一般でもよく起こっていることである。ここを読んだ時、「なんだ、これはまさに自分ではないか」と思った。ピラトはさぞや良心の呵責に悩まされたことであろう。いや、そうだと思いたい。判決後のピラトがどうなったのかは、色々な説があるが、聖書に書いてないのでわからない。しかし、この時の彼の決断により、ポンテオ・ピラトの名前は、2千年以上、イエス・キリストを十字架につけた人として使徒信条の中で語りつがれることになった。


39節「過ぎ越しの祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたち、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」


40節「すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗である。」


天の父なる神様、

私は、ピラトです。保身のため真理に背く言動したことがあります。そんな私を御子の血により赦して下さり、愛してやまないあなたに感謝します。どうか私たち一人一人があなたへの道を歩んでいくことができるよう、日々導いて下さい。イエス様のお名前により祈ります。アーメン

            文:マッカーター 政子
















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 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。」で始まるこの章は、その前の4章(13章から16章)のいわゆるイエスの告別の説教を終えられた後のイエス様の御父への魂の底から出てくる祈りです。それは告別の説教のまとめであり、また、この福音書の要約のようなものだそうです。


 17章の全体は三つの部分から成り立っており、最初はイエスご自身のためのいのり、次は弟子たちのために御父の守りの力があるようにと願う祈り、最後は「弟子たちによって信じる(ように変えられた)人々」のための祈りです。


 私自身心惹かれたのは、やはり最後の部分です。「弟子たちによって信じる人々」とは、当時弟子たちの言動を直接見たり聞いたりしてイエスを信じた人々の事であり、また異邦の地や、後の世に、現代に生きる私たちクリスチャンを含めて、イエスを信じるようになった人々のことです。


 イエスは信じる人々(私たちを含めて)が「一つとなるため」と言うことを続けて三度(21,22,23節)も祈り求められました。父なる神が御子イエスの中におられ、御子が父なる神の中におられるように、私たちもイエスの中にいるように、またイエスが私たちの中におられるようになるためです(21節)。私たちが一つに結ばれるためイエスは栄光を私たちに与えて下さった(22節)。私たちが一つになる時、神がイエスを遣わされたことと、神がイエスを愛されたように私たちをも愛していてくださることを、この世が知るためです(23節)。


 ではイエスが祈られた「ひとつとなる」とはどういうことなのでしょうか。イエスと神が一つであったのは愛と服従においてひとつでした。信じる人々が一つになるとは、神がイエスを愛するように、またイエスが神を、神がイエスを愛するように、互いを愛することだと思います。その互いを愛する愛とは、最近関先生がメッセージして下さるように、お互いに色々な違いがあり、不完全な愛ではあるけれども、お互いに愛し合い、その心と心の関係に根付いて一つになることだと思います。

 そこに神の栄光を世の人々は見て、まだイエスを知らない人々がそこに導かれるのではないでしょうか。                                                           

 「使徒の働き」に記されているように初代の教会が「ひとつになって」いた時、イエスが彼らに語られたように、聖霊が彼らの上に臨まれた時、彼らの上に神の「力が注がれ」ました。そして、多くの迫害や攻撃の中にあっても生存でき、ますます多くの信じる人々を寄せ付けることができました。


 まさに毎週聖日礼拝の中の歌「わたしたちはひとつ 愛のきずなにより 神の霊にみちびかれ わたしたちはひとつ」の通りです。



愛する天のお父様、今日のみ言葉を感謝します。父なる神様と御子イエス様と聖霊が一つであるように、私たちも強い愛のきずなで結ばれて、一つとなり世の人々に主の栄光を示すことが出来ますように。そしてその栄光を見て、多くのまだ信じていない人々を私たちの仲間に導き入れることが出来ますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン


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