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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」―20節(抜粋)―


 娘が召されて今年で8年になりました。当時は、悲しくて、日々泣いてばかりいました。神様、なぜですか?の一点張りでとても苦しくて心がとても痛かったです。

 悲しみが喜びに変わることがあるのだろうかと思う日々が続きました。これもあなたのお導きなんですか、と大声で泣き叫んだことがありました。人生で初めて経験することでした。


 イエス様が弟子たちに語られたこと、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」は弟子たちへの約束だったのです。私も3年すぎて心がうるおされたときにその御言葉を受け入れることができました。イエス様の御言葉の約束は私にも成就させていただけました。今もまだ涙は枯れることがありません。でも、それが以前のような辛い、悲しみでなくなりました。喜びの涙にかえていただけたのです。修養会でゲストスピーカーだったエジアさんの言葉が私にせまってくる思いでした。「深い谷間に湧き出る泉をみつけた。」それは、わたくしにも同じような気持ちでした。信じて神様の約束を待つことができて感謝でした。


 イエス様は、そのことを21節で女性の出産にたとえて語られました。

子どもの誕生はとても感動します。しかし、その感動の前には痛みがあり、苦しみを通らなければなりません。だが、子供が誕生すると激しかった痛や苦しみは忘れてしまいます。そればかりかそのような辛かったことはもう覚えていません。それが喜びの感動に変わるということなのです。


 エジアさんは、14歳のお嬢さんを亡くされて、お父さまを亡くされて、御主人を亡くされるというつらい人生の道を歩んでこられましたけど、深い谷間に湧き出る泉を見出すことができたのです。それは、彼女が神の約束を信じて待ってこられたからできたものだと思います。これからも、主のための彼女のミッションが祝福されることを祈りたいと思います。


「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」―33節(抜粋)―




 天の父なる神さま。あなたの御言葉の約束を今日も、明日も、これからもずっと信じて歩みます。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」(17)


 15章は、よく知られているブドウの木の譬え話です。これは、最後の晩餐の席で語られたイエスの”遺言説教”の中のことばです。

 もちろんイエスのことばはすべて尊いものですが、特に十字架を目前とした最後の説教ですから、その内容の深さは格別なものがあるでしょう。


 イエスが繰り返し語っていることは「互いに愛し合いなさい」ということです。ここ数年の礼拝説教も、「互いに愛し合う」ということが繰り返し語られ続けています。それはもうしつこいくらいに語られています。それは、みことばが繰り返し語っているからです。

 年度聖句は、牧師が選ぶのではありません。にも関わらず、8つの御言葉の内の5つは「互いに愛し合う」ことを語っています。

 教会の主が、私たちに繰り返し繰り返し「互いに愛し合いなさい」と語っていてくださるのです。


 私たちは、互いに愛し合うことにおいて成長していきます。それが教会の成長です。私たちはいまだに成長の過程にありますから完成されたわけではありません。ですから愛することにおいて未完成です。しかし、その未完成な私たちを、神は完成された完全な愛で愛していてくださいます。この神の愛は、今も聖霊によって私たちに豊かに注がれています。

 

 この愛のゆえに、私たちは「互いに愛し合う」ことにおいて成長し続けるのです。その時、教会は荒野のオアシスのように、この世にとって癒しの場となるのです。これからも、私たちは共に成長していきたいと心から願います。



天の父なる神さま。

 私たちが「互いに愛し合う」ことにおいて成長し続けることができますように。いよいよ私たちが神の愛に満たされ、愛を分かち合うことができますように。私たちを聖霊に満たして力を与えてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』


 この14章には、HCCの前年の年間聖句に繋がるみことば15節「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」とありますが、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くし(自分の全てをかけて)主を愛する理由は、主がこの世の道理ではなく、やがて私たちが向かうことになる、天に通じる唯一の道その者であり、この世を創造された源、全ての根源である真理であって、私たちが主なる神と共に生きることになる、永遠の命、栄光の光である神の御子イエスを仰ぎ見て、信頼をおいて心から愛する対象だからです。


 しかしながら、私たちの住むこの世、闇の世界は光である主を理解できないでおります。ヨハネ1章5節に「光は闇の中で輝いている。闇は*これに打ち方なかった。」共同訳では*闇は理解しなかったとあります。闇と光が対立して争っているという、力と力の争いではなく、闇は光が本来のあるべき姿であること、実体であることを理解していなかったと言うのがヨハネの趣旨だと思います。この世の闇は、この世はこの方を見ることも、知ることもないので、受け入れることができないと17節にはっきりと記されています。そうして、私たちはこの闇に住んでいる訳ですが、主イエスによって聖霊が私たちに与えられて、生ける水、光となって内側から照らしてくださる約束がここにあります。何という壮大な主の約束でしょう。私たちは闇の世界から、実体を知る、光の世界への写されているのです。


 主イエスはここで、ご自分の弟子達を励まし、これから起ころうとしている十字架に耐えられるように準備されておられる箇所です。弟子達に約束しています2節「私の父の家には住む所がたくさんあります」3節「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」何という心強いみことばでしょう。また主は帰って来られて、私たちと一緒に住むようにして下さいます。そこに行くことのできる唯一の道が主イエスであるからです。実体であること、影ではなく、本物であることが真理であることであり、それはこの世を創造された、全ての源である命である主イエス、この主イエスに繋がることで本当の命をいただけるのですとヨハネは、自分の経験、すなわち十字架での主イエスの死を目撃し、復活された主イエスと会って、自分の体験談として命のもとである主イエスを語っておられます。


 祈り

 主イエスが本物であり、この浮き世に比べて実体であるので、主イエスに従う道を歩むことで、永遠の命に到着することとなる事を再度、心に確認する事ができましたことを感謝致します。どうかこのキリストの道を多くの者たちと一緒に歩む事ができますように祈ります。 アーメン

文: 森 宗孝


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