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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『わたしが愛したように..』


 ある教会で生まれて初めて洗足式を体験した。たくさんの洗面器が用意されていて自分は椅子に座っている妻の足を洗い、交代してから妻が自分の足を洗った。今までじっくり見たことのない妻の足を拭きながら、きっと主イエスは弟子達の足を拭きながら話しかけていたのではないかなぁと想像した。一人一人に声をかけて、一緒に旅をしてきた時の思い出などを話されていたのだろうと思う。


 ペテロは、恐らく一番最後の方の末席にわざと座らせられていたのではないか、イエスの両側、上席には、多分右隣には、イスカリオテのユダ、左側にはこのヨハネが座っていた。ペテロは夕食に座った時から、なぜ一番弟子の自分がイエスの隣に座っていないのかと気になっていたのではないだろうか。そして自分の所にイエスが来られた時には、奴隷の仕事である洗足を主イエスがなさるなんて、とんでもない「自分の足は洗わないで下さい」と他の弟子達の足が洗わあれた後で言い出し、主イエスに怒られてします。この最後の晩餐の様子が生き生きと伝わってきます。


19節「事が起こる前に、今からあなたがたに言って起きます。起こったときに、わたしが、「わたしはある」であることを、あなたがたが信じるためです。」

 これは主イエスが神であること、エゴ・エイミーとご自分の事をはっきりと神であると宣言された場面でもあります。そうしてその後にユダが裏切りのために席から抜け出します。


34節「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 主イエスの新しい律法です。わたしが愛したようにとは、どのようなことなのか。自分の持っている貴重な時間を相手にあげて、自我を喜んで犠牲にする。そんなイメージでおりますが、とても主イエスが愛されたように愛する事ができない自分もそこにいます。そこに主イエスの最高の霊、聖霊の助けを求めながら愛せるように願うのです。


 わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。と主は言われました。どうか私もついて行けますように導いて下さい。


祈り

私もペテロが3度も主を知らないと言ったように、弱い意志の者ですが、それでも主が愛してくださっている事を確信しつつ、主の御手によって導き続けて下さる事を心から感謝致します。アーメン  

文:森 宗孝


「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」12:24


 この聖句は、キリストがご自身の十字架の死を一粒の麦の死にたとえて語られたところであります。キリストの死は、世界の多くの人々に永遠の生命を得させる豊かな実りをもたらすためでした。自分が死ぬことによって、人を生かすことこそ、神の栄光が現わされる方法でした。私たちが今、恵みの中に生かされているのは、キリストという一粒の麦の死によって起こったからであります。日々心に受け止めて、感謝すべきことであります。


 事実に基づいたあるドラマを観て感動させられました。ドラマは、ある村の少女のもとに幼い狼とライオンがやってきてこの三人が生活をともにやっていくという内容です。しかし、大きくなった狼とライオンはとらえられてサーカスの見世物にされたのでした。狼は囲いから逃げて檻の中にいるライオンを助けにいきます。鉄の檻の中にいるライオンを助けるのは簡単なことではありません。そこにライオンを調教する男が現れて檻のカギをあけるのを狼が見て彼に襲い掛かり、ライオンが見事に脱出しました。そして、二匹の動物たちは喜び勇んで山に逃げて行きました。だが、その喜びも束の間の出来事で、彼らを捕らえようとする山狩りが始まりました。少女は、狼とライオンを救いに行きました。ある川の所にきてそこから向こう岸まで渡ろうとしたときに、ライオンだけは頑固として少女の呼びかけに答えず、何度も彼女を振り返りながら山にもどっていったのです。そうです、ライオンは自分が山に残ればふたりの命が救われるということを知って犠牲になったのです。このドラマを観た時に、ライオンのとった行動がイエス様の「一粒の麦」の御言葉にかさなった思いにさせられました。


 ユダヤ人に対する最後の訴えでもあり、又、イエス様がご自分を一粒の麦にたとえて受難の意義を示されたとも言われています。この訴えは、今でも、まだ主を受け入れられない人々に語り告げなければならないことです。それが救われた私たちへの呼びかけではないでしょうか。



愛する天の父なる神さま。イエス様が、私たちのために一粒の麦として地に落ち死んでくださって感謝します。あなたのこの無償の愛が豊かな実を結び続けています。でも、まだまだこの無償の愛を知らない多くの人たちがいます。その人たちのために私たちが何をすべきかを示してください。どうぞ私たちがいただきましたそれぞれのたまものの使い道を示してください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 マルタとマリアの兄弟、ラザロが死んで皆で悲しんでいるところに、遅れてイエス様がやってこられた。イエス様が来られたと聞いて、マルタは街の外まで迎えに出た。そして、この死という悲しみ、絶望の中で、イエス様はマルタと個人的に会って下さった。

 

 「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることはなんでも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」というマリアのことばは、まるでイエス様への祈りのようだ。それは単なる絶望ではなく、神様にある希望の告白だ。彼女のことばにイエス様も、「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」と答えられる。そして、対話を通して「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」という彼女の信仰告白に導いてくださるのだ。


 ここで、イエス様はせっかく迎えに出て来たマルタと街に入らずに、同じ場所でマリアを待つのだ。マリアとも個人的に会いたいと願ってくださったからではないかと思う。


 マリアはイエス様が来られたと聞いても、マルタのようにイエス様のところにすぐに向かうこともできず、まるでイエス様に背を向けるように座っていた。マルタ同様に終わりの日には蘇ることができると信じていたとしても、大切な兄弟をなくしたのだ。悲しみが大きすぎて、何もできない心の状態だったのだろうと思う。それでも、イエス様が自分を呼んでくださっていると知って、やっと御許に行った。しかし、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」とただ御許で泣きすがるだけが精一杯だった。イエス様はそのマリアの心に、寄り添い、ご自分の悲しみとして受け取って下さり、共に泣いてくださった。


 イエス様はマルタとマリアへの対応で、私たちはつらい時、苦しい時、私たちと会話したい、私たちが感じているその心に寄り添いたいと願って下さる方であるということをあらためて思わされた。私たちの名を呼び、ご自分のところへと招き、私たちの置かれている状況をご自分のこととして受け止めて下さる方であることを思った。また、その状況を受け入れられない、なぜと心が騒ぐときには、対話して下さり、神様の御心をなにかしら示して下さる。そして、マルタを信仰告白に導かれたように、対話を通して、信仰をさらに確かなものにさせて下さる方であられることを思わされた。


 天のお父様、今日のディボーションの時を感謝します。今日も私たち一人一人の名を呼び、御許に招いてくださっていることを感謝します。必要な慰め、導きを与えて下さることをありがとうございます。その神様に見守られ今日も歩ませていただけることを感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。


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