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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『良い牧者』


「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです」(11節から13節)。


 この箇所の直前には、「わたしは羊たちの門です。」というたとえ話をイエス様は語られましたが、私は、11節からの良い牧者である話に触れたいと思います。


 それから、わたしは良い牧者で、わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています(14節)。良い牧者は羊のことを知っています。イエス様は、私たち一人一人を心にかけてくださっているだけでなく、私たち一人一人のことをよく知っておられます。私たちの名前はもちろんのこと、私たちの生い立ちも、私たちの性格も、私たちの個性も、私たちが置かれている環境も、私たちの長所も弱さもすべて知っておられます。すべてを知った上で、愛してくださっています。 


 どのくらい知っておられるのかというと、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じほどだと言っておられます。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てますとも言われました(15節)。


 そしてまた、良い牧者は、一つの群れ、一人の牧者となるということです。16節から18節までをご覧ください。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」                              

「この囲いに属さないほかの羊たち」とは、神の選民であるユダヤ人とは区別された異邦人クリスチャンのことです。イエス様は、それらも導かなけれなりません、と言われました。


 イエス様はユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いに導き、一つの群れ、一つの牧者となられます。イエス様はただ単に選民であるユダヤ人を救うためにこの世に来られたのではなく、「この囲いに属さないほかの人たち」、すなわち、異邦人をも救うために来られました。良い牧者であられるイエス様は、いつもあなたを緑の牧場へと導き、いこいの水のほとりに伴ってくださいます。「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」(詩篇第23篇4節抜粋)。


主の祈り:天にご在天の神様、あなたの御子イエス様を送って下さったことを感謝します。私たち異邦人クリスチャンも救われることが出来ました。あなたを信じ、全てをあなたに委ねることが出来ますよう、日々祈ります。聖霊様どうか弱い私たち羊の群れを覚えて下さい。イエス様の御名によって祈ります。アーメン


「この人に神のわざが現れるためです。」9:3(抜粋)


 ヨハネの福音書9章では、生まれたときから目の見えない人が見えるようになったというしるしが述べられています。2章ではカナの婚礼の時に水がめを水で満たした水がぶどう酒に変えられたこと、4章ではひとりの息子が病気で死にそうになった時に癒されたこと、5章では38年も病気にかかっている人が癒されたことなどのしるしが述べられています。これらの出来事で共通していることは、カナの婚礼の給仕の者、病気で死にそうになった息子の父親、そして38年も病のなかにいた者、一人一人が、イエス様の御言葉を信じて行なったことである。


 心に留まったところは、目が見えるようになった人をパリサイ人が何度も問い詰めたりしたときに、彼の勇気あふれた31節の発言だった。


「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。」


 ここから示されたことは、彼は目が開かされたばかりではなく、霊の目も開かされたことです。このことがまさに、この人に神のわざが現れたのです。何ごとも疑わずにイエスさまの御言葉に素直に従ったことだったのです。


「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』―39節―


 イエス様の警告であります。つまり、38年も目が見えなかった者がイエス様を信じることによって目が見えるようになり、イエス様を拒む傲慢なパリサイ人が盲目とされるということです。厳しいイエス様の警告を日々心に受け止めて歩みたいです。


 愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を感謝します。あなたによってたえず霊的な目が開く日々を送ることができますように導いてください。時には傲慢になり盲目とされますが、そのような時はどうぞ霊的な目が開かれる道へ歩ませてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


「すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかしイエスは身を隠して、宮から出ていった。」(59)


 このことばは、「姦淫の現場を捕えられた女性」の物語の最後の節です。興味深いことに多くの場合、イエスの癒しや奇跡などの出来事の後には、パリサイ人、律法学者たちとの問答が始まります。実はその問答の方がその出来事の意味を伝える大事なところなのです。


 この女性に対する赦しの宣言の後にもパリサイ人との問答が始まります。それが8章の終わりまで延々と続きます。そして最後の59節で、姦淫の女性に向けて投げようとした石(罪なき者から石を投げよというイエスのことばで一度は手放して地面に置いたはずの石)、その石を再び取り直して、今度はイエスに投げつけようとしたのです。


 その理由は、イエスがユダヤ人に対して、彼らが罪の中に死んだ者であり(21)、罪の奴隷(34)であることを示したからでした。

 姦淫の女性に対しては、罪の赦しを宣言しました。なぜなら彼女は自分の罪を知っていたからです。しかしユダヤ人たちは自分の罪を知りませんでした。むしろ真実を示すイエスに逆らいました。


 ここに、私たち人間の罪深さを見ます。人に対して石を投げるばかりか、イエスに対しても石を投げるのです。しかしイエスは、その石をつまり人間の罪をその身に受けてくださったのです。それが十字架です。(この時は、まだ十字架の時は来ていなかったので回避された。(20))

 石を投げられる自分、石を投げる自分、その私の罪のためにイエスは十字架にかかり、その罪を赦し、清めてくださったのです。

 今や私たちは、イエスに石を投げるのではない、賛美を捧げる者とされたのです。ただただ十字架にかかってくださった主に感謝を捧げます。


天の父なる神さま。

 私たちは、人に石を投げ、イエスにまで石を投げるような者たちです。人を裁き、イエスをも裁くような罪人です。しかしあなたの十字架の救いによって、今や私たちは石の代わりに賛美を捧げる者とされました。この恵みを心から感謝します。

 どうか、この主の十字架をもっともっと分かることが出来ますように。私たちの心の石を砕いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


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