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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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『律法の支配』


 なぜ神は、誰一人として人間が守れない律法を与えたのかと聞かれたことがあります。それに対して明確な答えを出すまでの知恵をもっておりませんが、この質問は、なぜ楽園であるエデンの園の中央に、食べてはならない善悪の知識の木といのちの木を生えさせたのか。という質問にも似ていると思いました。 ”神のみぞ知る”と言ってしまえばそれまでですが、もう少し考えてみましょう。


 律法は、ちょうど幼子が自転車に乗る練習をしてひとり立ちできるまでの間に、自転車につける補助車の役目と聞いた話を思い出しました。思えはイスラエルの民は、奴隷の状態から解放されはしたものの、荒野での試練をうける直前にモーセによって、もっとも重要な律法の十戒が与えられたわけです。さらにお互いの家族を守り、財産を守るための、いわば民法 Civil Law、これは重要な掟を守り、集団生活をするのに必要なルールとしてイスラエルの民に与えられのです、それが十戒も含めて、613あったとイスラエルの民は定義しました。


 パウロは、この7章でさらに明確に、心では神の律法に仕え、肉の身体は罪の律法に仕えていることを説明してくれました。さらに律法が人を支配するのは、その人が生きている期間だ。死んだらこの律法は適用しないことを示し、私たちはキリストを通して罪の律法に死んで、新しく神の律法によってよみがえったと伝えてくれます。自分の理解では、私たち自身は原罪をもって生まれてきているので、律法を守り通すことは自力ではできませんので、完全に罪のない、しかも神の律法を最後まで従順にまっとうした主イエスを信じることによって、その信仰ゆえに律法を守りきれなかった罪も赦されるのだと思います。なんと壮大なパウロの説明でしょう。


 例えば交通ルールの速度制限で65マイルと設定、これが律法としましょう。これに対して、他のドライバーもスピードを守っていないと自分で判断し決めてしまい、結局スピード違反で走りつづける私たちの自分中心となってしまう姿を描いています。もしもドイツのアウトバーンのように制限速度、律法がないとすれば、好きなだけの速度で走り、なんの罪意識も感じないことでしょう。しかし律法である65マイルがあるために、この律法は他のドライバーの安全をも考えて作り出されと事を知りながらも、守らない自分がいる、罪の自分がいると、もしもパウロが今の時代で車の運転していたら、きっとそう説明してくれたかもしれません。隣人を愛せと律法で言われても、自分の基準で、あの人意地悪だし、クリスチャンではないし愛することはできないが、うちの子供に優しくしてくれる、あの隣人であったら愛せると自分の判断で聖なる律法を解釈してしまう自分たちの心のうちをパウロは表しているのでしょう。エデンの園の善悪の木は、神の善悪から、人が自分自身の判断で善悪を決めてしまう実でした、それを食べてしまった結果なのです。


 この7章は、律法に縛られているユダヤの民、主を信じたいが律法が気になって、妨げられている者たちに、主イエスによってその鎖から解放されたことを深い論理によって、説明された箇所です。


祈り

私たちは律法を成就された、たった一人のお方、神の御子イエス・キリストにすがり、信じることによって、主イエスが盾となってくださって、私たちの罪が赦された事を心から感謝します。アーメン

文: 森 宗孝


「罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」―23節―


 罪の報酬は死。神の賜物は永遠のいのち。この二つのことについて、クリスチャンである私たちは誰もが知っていることだと思います。罪を犯せば当然の報いとして死に至ります。だが、神から、イエス・キリストによって私たちに与えられた永遠のいのちを持つことは、神からの賜物と受け入れることであります。そのことを知り、信じることが私たちの務めであります。


 そしてパウロは、11節で、「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」と語っています。 認めることです。


 さらにパウロは、16節で自分自身を奴隷として献げて罪の奴隷となって死に至るか、あるいは従順の奴隷となって義にいたるかと述べています。つまりだれが主人(サタンか神)であるかによって、結末は全く違ってくるということです。以前は私たちは罪の奴隷でしたが、その罪はキリストとともに死にました。今や私たちは神の奴隷とされたのです。縛られることのない自由な神の奴隷とされたのです。このことを信じ続けていくことです。信じるときに内なる聖霊がはたらいてくださるのです。そして、パウロは、自分の手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさいと述べています。


 この箇所を読んでいて、ずっと以前に関牧師が述べられたことが思いだされました。「自分がなかなか抜けだせない罪、悪習慣、それらは、もうすでにキリストとともに十字架につけられたことを信じていくことです。自分の意思力が弱いからではなく、この御霊の働きの中に入っていなかったからです。神が用意されている義の賜物を受け取っていないからです。」


 これからは、その悪習慣のことが脳裏に焼き付いてきたときには、これらのことは十字架につけられたんだということをしっかりと信じて歩んでいこうと思わされました。 



 天の父なる神さま。

私たちはいろんな失敗をして、自分の意思の弱さに塞ぎこむことが多々にあります。そのような時には、御霊の働きの中に入っていけずに、ましてや、義の賜物を受け取ることすらできません。そのときには、私たちを憐み、義なる道へと進むことができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン


 今日の聖書箇所で「今立っているこの恵み」というみことばが心に留まった。長年悩まされていることがいくつかあり、このことにどう向き合ったらいいのかとか、どう対処したらいいのかと考えている。どうにも手に負えないことなので、なんとなくやり過ごしている部分があったが、それがここ最近でまたいくつかが同時に表面化してきて、頭の痛い状況だ。


 私の人生、本当に神様の恵みが一杯なのだが、やらなくてはいけないことと問題ばかりを見ていたら、自分が恵みの中に立っている者なのだということを忘れていた。今日の聖書個所から、あなたは私の恵みの中に生かされているんですよと神様に言われている気がした。確かに問題は問題としてあるけれども、一日を忙しく過ごしてお終いにするのではなく、一度立ち止まってほかの景色も見てみなさい、神様が与えて下さっている今日の恵みをもっと味わいなさい、と言われている気がした。


 このように私がいっぱいいっぱいになっても、神様はなんらかの形で語って下さり、視点を変えて下さる。決して一人になることはない。神様との関係の中に生かされているとはなんという恵みだろう。あとから、あの時はなんと近視眼的にしか物が見えていなかったのだろうと思うことがある。静まって、やっと見えてくるもの、聞こえてくるものがあることを思った。


天のお父様、今日のみことばを感謝いたします。無条件の神様の愛によって私が救われ、今、恵みの中を生かしていただいていることを感謝いたします。生きているといろんなことがあり、理不尽と感じることもあるけれども、そのひとつひとつを神様がご存じで、共にいて思いを受け止めて下さり、支えて下さり、新しい知恵と力を与えて下さることをありがとうございます。私の通る痛み、苦しみすらも、決して無駄にならないことをありがとうございます。神様のご計画は完全で、そして愛は私の想像を超えたものです。その神様の愛に信頼し、憩い、今日を過ごさせて下さい。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン



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