top of page
Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

【お知らせとお願い】
​ メールアドレスを登録して頂ければ、
 新規ブログ更新毎にお知らせメールが届きます。​
 この機会に、是非、ご登録をお願い致します。​

ご登録ありがとうございました

 *登録の手順) アドレス入力 → 「>」を押下

 今日からヨハネの福音書に入ります。ヨハネは、他の3福音書とは異なる独特な視点で福音書を記しています。

 

 特に今回、心に止まった御言葉は「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(14)です。


「ことば」とは、イエス・キリストのことです。「ことば」とは、単なる情報伝達のツールではありません。「ことば」とは、そのことばを発している人そのものです。ことば=存在なのです。

 イエスのことばは、イエスそのものです。ですから、私たちは肉眼ではイエスに出会ったわけではありませんが、イエスの「ことば」に出会っているので、イエスに出会ったと言うことが出来るのです。


 その「ことば」であるイエスが、肉体を受けてこの地上に来られました。その時に、私たちの「間」に住まわれたと記されています。「間」です。

 イエスは、人と人との間、人種と人種、民族と民族、国と国の間におられるのです。間というのは、双方から等しく見られるということです。こちら側の人にも、あちら側の人にも、等しくイエスは、神であり、救い主なのです。

 

 分断された現代の社会において、間に立っていてくださるイエスに気づくとき、双方がイエスに目を向けるとき、初めてそこに平和が造り出されていくのです。 


 天の父なる神さま。

 私たちの間におられるイエスさまに感謝いたします。私の救い主は、あちらにとっても救い主です。私たちが、どんな時でも、お互いの間にイエスがおられることに気づいて、共に歩むことができますようにどうか導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


『人口調査』


 せっかくのサムエル記最後の章ですが、理解に苦しむ章でもあります。ダビデが人口調査をするのですが、それが主の怒りであると記されている1節ですでに、分からずに悩んでしまいます。なぜイスラエルとユダの人口を数える事が、主の怒りにふれるのか。考えながらこの章を読んでみます。


 人口調査といえば、例えば民数記では第1章で荒野での2年目に主がモーセにイスラエルの民を一族ごとに人口を調査するようにとレビ族を除いた人口が六〇万三千五百五十人であったとされ、そのような意味で、この書自体を民数記と名付けられているわけですから、人口調査自体が悪いはずはないのです。


 さて、サムエル記と内容が重複している歴代誌に何と書いてあるか。歴代誌第一 21章1節「さて、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。」それに対して3節「ヨアブは言った。「主が、御民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王よ。彼らはみな、わが主のもの、そのしもべではないでしょうか。なぜわが主は、このようなことをお求めになるのですか。なぜイスラエルに罪禍をもたらされるのですか。」この歴代誌ではサタンがそそのかしたとあり、ヨアブもダビデに反対意見を述べているので、人口調査の目的そのものが主の目に悪であり、サタンにそそのかしたという事なのだろうと思うのです。


 人口調査の目的が、書かれていないので想像するしかありませんが、例えば税の取り立ての為であったとか、戦争に備えるため、自分の王としての力を誇示するためとか考えられますが、主の為では無かったことは間違いないようです。しかも、ヨアブが調べてきた登録人数がサムエル記ではイスラエル兵士は八十万とあるのに、歴代誌では百十万と数字も全く違っているのはどうしてでしょうか?


 しかし、このダビデによる人口調査の咎のために、三つの罰を主が用意され、ダビデ自身がその中から疫病を選んだために、七万人の民が死んだとあり、これは歴代誌でも同じ数字が示されています。ダビデのこの一見何でもないような罪によって七万人が死んだ、これって大変悲惨な結果を招いたわけで、神に選ばれることは、同時に大変な責任と試練に会うことが定められています。


 こうしてこの章の締めくるり、それはダビデの罪の贖いのために、エブス人アラウナの土地に祭壇を気づきなさいとの指示が出ましたが、この土地がアブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山、エルサレム神殿がやがて建てられる神聖な場所となります。罪の贖いのための祭壇と捧げ物、やがて来られる神の子羊となられる主イエスの事を暗示しているのでしょう。


祈り

 主よ、私たちの罪は贖いの捧げ物となられた主イエスの十字架で支払われました事を、感謝いたします。どうか私たちも主の従順さを見習って、神に忠実な僕となることができますように導いてください。

アーメン 

文:森 宗孝

 23章はダビデの最後の歌だと言われています。


 詩編150篇のうちダビデが作ったのは73篇もしくはそれ以上だったと言われているそうです。どのようにして詩編の半分以上の歌がダビデに与えられたのでしょうか。それは、2節に語られていることそのものです。「主の霊は私を通して語り、そのことばは私の舌の上にある。」つまり、主の霊がダビデを通して書かれたものであり、神のことばだと言われています。 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」使徒の働き1:8。


 ダビデを支えた三人の勇士たちの行動に目が留められた。

三人の勇士たちとは、ヨシェブ・バシェべテ、エルアザル、シャンマである。彼らはダビデがベツレヘムの門にある井戸の水を飲みたがっていることを知っていのちがけで汲んできたのである。なんとすばらしい勇士たちでしょうか。ダビデは、彼らがそこまでするとは思わなかったはずです。彼らが自分にしたことにたいして心から感謝、謙遜になったのではないでしょうか。それゆえ、ダビデはその水を飲もうとはせず、それを主の前に注いで、こういった。「主よ。そんなことをするなど、私には絶対にできません。これは、いのちをかけて行って来た人たちの血ではありませんか。」―17節―(抜粋)


 ここを読んでいて、いのちを惜しまずに主人のために希望をかなえる勇士たちのとった行動は主人への忠誠心、心からの愛の行動でした。そして、彼らの気持ちを謙遜に受け入れるダビデの行動は、彼らの行動こそ神にささげられるべきものとみたのでしょう。主に在ってすばらしい師弟関係だと示されました。ダビデ王国の確立は、そういう勇士たちの働きなくして成り立たなかったでしょう。それは、すべて主の恵みによるものであります。私たちの教会生活においても言えることです。教会は、牧師だけで運営できるものではないことはみながよく知っていることです。教会員の一人一人が仕え合う側とそれを謙遜なきもちで受け入れる側との一致のなかで成り立っていくものではないでしょうか。主に在って教会員が一致することは教会形成の基本となっていく大事なことであります。



  愛する天の父なる神さま。あなたの尊い御名を心から感謝します。ダビデの勇士たちの働きが、主人にたいする忠誠心であったように、私たちクリスチャンも私たちの主なる神に心から忠誠心をもって仕えることができますように導いてください。そのためにも、主に在って兄弟姉妹たちと心から喜んで助け合い、愛し合っていくことができますように助けてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。


bottom of page