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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 息子アブサロムの死を悲しむダビデとヨアブの不平不満が述べられている。

自分の子どもの死を悲しまない親なんてあり得ません。だが、ヨアブの不平不満もわかるような気がします。勝利の凱旋を意気揚々と入ってくるはずが、まるで戦場から逃げて恥じている兵がこっそり帰るように町に帰って来たのです。ダビデと家族のいのちを救って帰ってきたのに家来たち全員に恥をかかせたとヨアブの不平が表されています。


 王であるまえに人の子であり、人の父であり、夫であるのです。悲しむ時には悲しみます。ヨアブにみえるのは、息子アブサロムを失ったダビデの悲しみを理解せず、自分たちの手柄を認めてほしかったのです。そして、その意にかなわなかったら自分たちは離れて行くと、脅かすようなことを語ったのである。ダビデはやむを得ずそれに従い、家来たちの前で釈明したのである。ここで自分に問われることでもあります。自分の肉親の悲しみを伏せて、大衆の目の前で「みなのもの、よくやった。」といえるだろうかと。上に立つ者への厳しい試練が問われる思いがします。


 ダビデは、主(あるじ)を失ったアブシャロムの側についたイスラエル人や、ダビデを裏切ったユダ族に憐み深い言葉を送ったのである。


「あなたがたは、私の兄弟、私の骨肉だ。なぜ王を連れ戻すのをいつまでもためらっているのか。」19:12


さらにダビデは、自分を裏切ってアブシャロムの将軍となったアマサに対しても憐みの言葉を送ったのである。


「あなたは私の骨肉ではないか。もしあなたが、ヨアブに代わってこれからいつまでも、私の軍の長にならないなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。」19:13


 なんというすばらしいダビデの深い憐みでしょうか。この憐みの愛は、主なる神がダビデにもたらしてくださったものであると信じます。私たちも主の臨在のなかにはいれたらきっとダビデのような深い憐みの愛を他者にも与えることができるでしょう。



愛する天の父なる神さま。あなたの愛は、たとえ裏切られても赦す愛、憐みをもってあいする愛。なぜなら、神は愛だからです。そのような愛にもっと近づいていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



 なんとダビデの息子アブサロムがクーデータを起こしたのです。ダビデは命からがら王宮を脱出し逃げます。この出来事は、ダビデのウリヤ殺害、バテシェバとの姦淫という罪に対する報いでした。「見よ。わたしはあなたの家の中から、あなたの上に災いを引き起こす。」(2サムエル12:11)と語られたことが成就したのです。


 しかし神は、ダビデを滅ぼすことはせずに、クーデターを阻止し、アブサロムを討ち取り、ダビデの王位を回復されたのです。

 このアブサロムの死が部下から知らされたとき、ダビデは嘆きます。

「わが子アブサロム。わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」(33)


 自らの命を狙ったクーデター首領であっても、わが子であることに変わらないのです。かといってみすみす殺されるようなことはしません。ダビデは、アブサロムに対抗し策を練り戦いました。しかし一方で、それでも「わが子」なのです。

 わが子を愛することは止められない、しかし戦わなければならない。ダビデは、この二つの矛盾する心を抱えていました。それがダビデの苦悩です。

 

 この心は、天の父の心に重なります。愛するひとり子イエスを十字架につけたのです。愛するわが子を裁かなければならないという葛藤、矛盾です。

 ダビデの嘆きを通して、天の父なる神の嘆きを想いました。この葛藤と矛盾を超えさせたのは、愛するひとり子イエスを十字架につけることで、人間を救うことができるという事です。それは愛です。愛がすべてを超えるのです。  

 

 天の父なる神さま。

 ダビデの嘆きに、天の父の嘆きを見ます。その葛藤、矛盾を超えて、イエスさまを十字架に架けられた、あなたの心を想います。十字架は、私たちを救うためであるという、あなたの愛を想います。

 今日も、すべてを超える、あなたの圧倒的な愛を受けていることを感謝いたします。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


『主がアブサロムにわざわいを』


 日本の戦国時代にも血肉の裏切りや策略によっての戦いが繰り広げられていた、この章では、なぜか織田信長を討ち取った家臣、明智光秀を思い起こした。しかし日本の歴史と決定的に異なるのは、イスラエルの歴史には、神がどのように介入されたかが常に背後にある事ではないだろうか。


 15章31節に、ダビデが主に願っている事が記されている「ダビデは言った。『主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』とあり、実際にこの17章では、アヒトフェルが「私は今夜すぐに、ダビデの後を追い始めます」との助言が取り上げられそうになった所で、主の介入があった事を私達は読み取る事が出来ます。


 もしもこの時にアヒトフェルの提案の通り、ダビデをすぐに追いかけていたら、ダビデの命は無かった事でしょう。17章14節抜粋「主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。」イスラエルの歴史を読む私達は、主が常に背後におられることを読み取ることができる。


 ダビデを助けようとしていたのは一人ではありませんでした。アヒトフェルの助言を打ち消した、アルキ人フシャイと言う人も、アブサロムに隠れて、ダビデを助けようとしているし、あのヨナタンもダビデに状況を伝えようと命懸けで伝令となり、またさらにそのヨナタンらを匿う人もいた。さらに戦闘前のダビデと彼の兵士たちに、食料を持って届けに来た者たちもいた事が記されているのは、ダビデには主が背後におられて助けられておられた事を示している。


 三日殿下の明智光秀に対して、豊臣秀吉が急遽京都に戻ってきて彼を打ち破る事になったのは、秀吉の背後に民意を掴む力があったのだろう、しかしそれ以上に、イスラエルのダビデの背後には主が立っておられた事が人間の歴史である、日本史と神のみことばである聖書の違いであろうと思わされた章でした。


 祈り

主よ、私達には信者となってから、これまで以上の戦いがあります。以前のような家族のことや、健康のこと、職場での患難に加えて、クリスチャンとしての特別な戦いを強いられています。それは敵を愛せとの戒めを守ろうと努力しても、敵からはさらに嫌われたりされる戦い、自分の全てを尽くして神を愛そうとしても、自我の思いが先になってしまう戦い、しかしそのような中にも、主が私たちの後ろに立っていて下さる事で、戦いが戦いで終わるのではなく、帰って神の試練として、私たちの心を鍛える訓練であることに感謝できますように。アーメン  

文:森 宗孝


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