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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「しかし、ダビデが行ったことは主のみこころを損なった。」(27)


 ダビデの人生における大失敗、汚点です。人の妻バテシェバと関係を持ち(姦淫の罪)、その罪がばれないように画策し、果てはその夫ウリヤを謀殺(殺人の罪)しました。ダビデのイメージが一気に悪くなる、とんでもない罪を犯したのです。

 多くの王様の年代記は、王の名誉を貶めるような出来事は書きません。王の成功だけをかなり盛って書かれるのが普通です。しかし聖書は、ダビデの過ちを容赦なく書き記します。

 

 ダビデの過ちの原因は、油断と言えるでしょう。権力と名声を得たときが一番危ないのです。ダビデは神から目を反らし、自分の思うままに行動してしまったのです。

 このダビデの過ちから一つ学ぶことは、人間は、頂上に上った時こそ、落ちるリスクも高くなるということです。人類の歴史に繰り返されるパターンです。 

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)


 また、このダビデの過ちが聖書に記されることで、私たちは神の恵み深きことを知ります。どんな失敗を犯したとしても、真に悔い改めるなら、神は再び立ち上がらせてくださる。失敗して人生終わりではないという事を私たちに告げてくれます。

 詩篇の51篇には、ダビデの魂の叫び、本気の悔い改めが記されています。


 私たちは、このダビデの過ちを反面教師として教訓を学びます。同時に、神の恵み深きことを知ります。自分の罪を知ること、神の恵みを知ること、この二つを知ることが大切です。

 自分の罪に嘆く者たちでありたいと思います。同時に、その罪のために十字架にかかってくださったイエスに心を向けたいと思います。 


 天の父なる神さま

 ダビデの過ちを通して、私たちの持っている罪性の恐ろしさと、その罪を赦す神の恵みを知ることが出来て感謝いたします。

 自分の内にある罪を嘆く者でありますように、そしてその姿で主の十字架を仰ぎ見る者でありますように。十字架という全ての答えが与えられていることを感謝します。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

                               文:関真士


『ダビデ王国の確立』


 神に選ばれたイスラエルの民には、この世において大変な試練の中を歩んできた。近代のイスラエル民族の歴史を見ても、離散先の国々では迫害され、ホロコーストのように徹底した迫害を受け、今のイスラエル国家も周りには、敵意を持つ裕福な国々に囲まれ、周りの国は石油のおかげで大変豊かなのに比べて、イスラエルには石油は無い。イスラエル旅行の時に観光バスがガソリンスタンドに寄って満タンにするのを見ていたら、何とガソリン料金が米ドルにして約1,000ドル払っていたのには大変驚いたのを思い出します。


 このサムエル記の時代もイスラエルの西、地中海沿いにはペリシテ人、南の砂漠地帯にはエドム人とアマレク人、ヨルダン川の東にはモアブ人、アンモン人、そして北にはユーフラテス川の向こうにアラム人に囲まれているイスラエルを見ます。そしてこのアンモン人はアラム人を雇って、イスラエルと戦おうとした。6節抜粋「アラム人の歩兵2万、マアカ王の兵士一千、トブの兵士1万2千を雇った」とあります。


 それに対するイスラエルは12節「強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために、奮い立とう。主が御目にかなうことをされるのだ。」と主の戦いとして立ち上がりました。そうして結果として雇い兵のアラム人は彼らの前から逃げた。とあります。さらにアラム人との戦いがありますが、イスラエルは戦車兵7百と騎兵4万人を殺したとありますので、徹底的に北の脅威をも無くすことができて、これでダビデ王国の基盤が確保できたことになります。19節抜粋「王たちはみな、イスラエルに仕えるようになった。アラム人は恐れて、再びアンモン人を助けようとはしなかった」


 この時の戦いは、主の御目に叶う戦いであったのでしょう、しかし、果たして今日現在、起こっているイスラエルとガザ、ハマスとの闘いは主の御目に叶っているのか..と問わざるをえません。

 

 平和であるハワイから見て、簡単に戦争の当事者たちを理解することはできません。もしも母国の日本や台湾が攻撃を受けたらと想像するだけでも、心が痛みますが、残念ながら人間の力では真の平和をこの世に創ることは出来ないことを私たちは知っています。


 私達が願うのは、主イエスが王としてもう一度この世に戻って来られ、人間の王ではなく、神の子イエスのもとで仕える事で、本当の平和、平安が来る事ですが、それでも主と共に立ち上がって、暗黒の勢力と戦う事になる事も予想しております。しかし、これは本当に主の戦い、主と一緒に、主を仰ぎながら闘うことになるのです。


祈り

どうか、毎日のように戦いの犠牲になっておられる方々の冥福と、この争いによって憎しみに支配される国となりませんように、私たちの愛する米国も、政治的な対立による分裂を迎えるかもしれません危機に見舞われていますが、分裂ではなく、主イエスによる一致と導かれますように アーメン  

文:森 宗孝


 ダビデはヨナタンとの友情の誓いのために、たった一人の生存者ヨナタンの息子メフィボシェテを探し出して、彼に真実を尽くすのである。


 とても心に響いてくるダビデの誠実な信仰の姿である。ダビデは主によってすべての戦いに勝利してもヨナタンとの契約は決して忘れていなかったのである。その契約とは、サムエル記第一20章:12~17にある内容です。

 

 ヨナタンはダビデに言った。『イスラエルの神、主にかけて誓います。明日かあさっての今ごろまでに、父がダビデに対して寛大であるかを探ってみます。寛大でなければ、必ず人を遣わして、あなたの耳にいれます。もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がさなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられますように。主が父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。もし私がこれ以上生きるべきではないのなら、あなたは、主の恵みを私に施して、私が死ぬことのないようにする必要はありません。しかし、あなたの恵みを私の家からとこしえに断たないでください。主がダビデの敵を地の面から一人残らず断たれるときにも。』ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。『主がダビデの敵に血の責めを問われますように。』


 ヨナタンも自分の命をかけてダビデと契約を結んだことがわかります。自分の命が絶たれることがあっても、自分の家族だけは助けてほしい、彼の家系が絶たれることがないようにということです。そして、今、ダビデはヨナタンとの契約を真実をもって息子のメフィボシエテに尽くそうとしたのである。そして、メフィボシェテは、王の息子たちのように、ダビデの食卓についてともに食をすることになったのである。


 ここから何が語られたかというと、人から受けた恩を忘れてはいけないということです。自分ができる時に、できる範囲で心から感謝をもってお返しをするということではないでしょうか。私たちクリスチャンは、イエス様によって無償の愛で救われました。その無償の愛を忘れてはいけません。そのお返しとは、主に栄光を帰すことになるのです。一人一人に与えられた賜物を用いて主の栄光のために喜びをもって仕えることではないでしょうか。



 愛する天の父なる神さま。ダビデを通して人の恩を忘れてはいけないことを語ってくださって感謝します。それ以上にイエスさまへの無償の愛のお返しを忘れてはいけないことです。私たちクリスチャンができることは、心から喜びをもって主に栄光を帰すことができるように仕えることです。どうぞ主のためにそのように用いられますようにお祈りします。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



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