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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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 8章はダビデ王国の確立、拡大してきたところが記されています。ダビデの戦いは行くところ阻むところなくすべてが勝利に終わった。主なる神が共におられたからです。


 ダビデがモアブを討った時の様子にとても興味を示された。2節、「彼はモアブを討ち、彼らを地面に伏させ、測り縄で彼らを測った。縄二本で測った者を殺し、縄一本で測った者を生かした。」当時は測量機器もなかったので縄を使って測ったのでしょう。語源から読み取ると縄二本で測った者といったら、きっと大きな体の人で、縄一本で測った者というのは小さな体の人だったと思います。


 どうしてそのようなことをしたのでしょうか。ある解説者によると、大きな体の者は殺し、小さな体の者は生かしておいたということである。本来ならばそのような大小に関係なくばっさばっさと殺していく戦国の時代なはずです。なぜと疑問をもたらされます。それは、ダビデが主から受けた憐みの愛をこの小さな者にあらわしたのではないかということが示されました。それこそイエスさまの十字架の愛につながるものです。私たちも小さき罪びとの中の一人である者がイエスさまの十字架によって救われたことは、ただ憐みの愛以外にほかはありません。


「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」―14節―(抜粋)


「ダビデは全イスラエルを治めた。ダビデはその民のすべてにさばきと正義を行った。」―15節―


 主がダビデと共におられたからどこでも勝利が与えられた。それはダビデも良く知っていたから高慢にならずに、民のすべてにさばきと正義を行うことができたのです。これらのことはみな神からでたことです。国にとってもっとも大切なことは正義であると言われています。ダビデがすぐれた王であった理由は、主に謙遜で従順に従うだけでなく、主にあって正しいさばきをおこなっていたことにあると言われています。


「正義は国を高め、罪は国民を辱める」―箴言14:34―



 愛する天の父なる神さま。今日の御言葉を感謝します。正義が国にとっても大切であるように、私たち人と人の間でも正義は大切だと思います。主の臨在の中で日々いかされてくださっていることを感謝します。あなたに心から謙遜で従順に従っていくことができますように導いてください。感謝して主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン



 ダビデはサウル王に命を狙われたり、戦争続きで気の休まらない人生だったが、今神様からいただいた安息の時を過ごしていた。その平安の中で神様の契約の箱のために、もっと最高の場所を用意したい、神様への愛と感謝を表現したいと考えた。


 それに対して神様は、立派な家なんて欲していないこと、イスラエルの民を安息の地に導くことは神様のご計画であったことを語って下さる。そこに、民と共に歩むその道のりが神様の喜びであり、神様がいらっしゃりたい場所だったんだと仰って下さっているようで、神様の愛を感じた。

 

 人は愛の表現として自分がうれしいことを相手にもしてあげようとする。でも、それが相手のうれしいことといつも一致するわけではない。ダビデにとっては最高の愛の表現の一つだった神様のための家造りも神様からしたら、人間の造ったものにはお住みにならないし、(使徒の働き17:24)造ったとしてもダビデにその役割は任せていないという思いだっただろう。(1歴代誌28:3)

 

 それでも、神様はダビデの愛にこたえて、神様ご自身がダビデのために一つの家を造って下さると仰る。ダビデは神様に何かしたかったのに、神様の方がさらに祝福して下さると仰るのだ。これは実際の宮建築と同時に将来の救い主の預言が含まれている。思いもよらないほどの祝福を神様は与えると約束して下さったのだ。宮建築も、ダビデが望んだから、それにこたえる神様の愛の表現として約束して下さったのではないかと思う。


 ダビデは自分の子孫を導き祝福し、神様ご自身がダビデのために家を造って下さるという神様の約束を全き信頼をもって受取り、感謝している。それが自分の願ったものとは違った部分があったとしても、神様の御心が成るように祈る。それは神様こそ神様であり、神様の御心が成ることがダビデの願いだったからだ。この7章のダビデの願いと神様の応答、そしてそれに対するダビデの祈りは、愛と信頼で結ばれた神様とダビデの関係があらわれていると思った。


 天のお父様、今日のディボーションの時を感謝いたします。聖書を通してさまざまな信仰者の歩みを見させていただけることは本当に恵みです。ダビデに倣い、もっと神様を求め、信じ、愛する者にならせてください。私もあなたと愛と信頼の関係を日々深めていくことができますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。


『神の箱』


 ダビデがイスラエル全体の王となり、エルサレムを首都とした直後に、神の箱をエルサレムに運び入れるために、精鋭三万人の兵士を集めるところから6章は始まります。主の臨在がなければイスラエルを治めることは難しいと思ったダビデは、「神の箱を新しい荷車に載せて、それを丘の上にあるアビナダブの家から移した。アビナダブの子、ウザとアフヨがその新しい荷車を御した。」(3節) 


 彼らがナコンの打ち場まで来たとき、ウザは神の箱に手を伸ばして、それをつかんだ。牛がよろめいたからである(6節)。すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神はその過ちのために、彼をその場で打たれた。彼はそこで、神の箱の傍らで死んだ(7節)。牛がよろめいてひっくり返そうになったため、ウザは善意で箱に触れたのに、神の怒りに触れて打たれて死んでしまうとは、何と悲惨な出来事でしょうか。人間的な善意に過ぎず、神の御心ではなかったということでしょうか? 


 なぜ彼らは神の箱を新しい荷車に載せて運ぼうとしたのでしょう? 民数記4章15節によれば、「宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わってから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死ぬことのないようにするためである。これらは、会見の天幕でケハテ族が運ぶ物である。」しかも、それを運ぶことができたのはレビ人の中でもケハテ族に属する人たちだけでした。それ以外の人は運ぶことができませんでした。彼らが担いで運ぶことができるように箱の四隅には金で出来た環が取り付けてあり、そこにアカシヤ材で出来た棒が通されてあったと説明されています。つまり、主の臨在を求め、神を礼拝しようとしたダビデの思いはすばらしかったのですが、神のみこころではなく、この世の方法を取り入れてしまったからでしょうか。


 ダビデの心は激した。主がウザに対して怒りを発せられたからである。その場所は今日までペレツウザと呼ばれている(8節)。


 その日、ダビデは主を恐れて言った。「どうして、主の箱を私のところにお迎えできるだろうか。」 ダビデは主の箱を自分のところ、ダビデの町に移したくなかった。神の箱を運び上がることによって多くの人が死ぬのではないかと畏れ、ダビデは、ガテ人オベデエドムの家にそれを回した。主の箱はガテ人オベデエドムの家に三か月とどまりましたが、主はオベデエドムと彼の全家を祝福されました。すると「主が神の箱のことで、オベデエドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデエドムの家からダビデの町へ運び上げた。(9~12節)


 不敬虔な態度でキリストに近づくことは危険なことですが、敬虔な態度でキリストを求めるなら、そこに大きな祝福をもたらされます。神の御前にへりくだり、敬虔な態度で主を求め、主の祝福の与えられるものでありたいと思います。


主の祈り:愛する天の父なる神さま、御名を褒めたたえます。ダビデのようにあなたの臨在を求めて祈ります。どうか、あなたの御心、ご計画を私たちに示して下さい。 感謝して主イエスキリストの御名によってお祈りします。 アーメン



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