『信仰の父アブラハム』
パウロは、信仰による義認の教理を、まずイスラエルの信仰の父として尊敬されているアブラハムを例に挙げて証明しています。「肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。」(1節)。旧約聖書をみると、「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」と記されています(創世記15:6)。それから、有名なダビデ王を例にして、ダビデも「幸いなことよ、不法を赦され、罪を覆われた人たち。 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」(6~7節)と告白していて、行いと関わりなく、神が、別の道で義と認められる道があることを示している、とパウロは言います。
こうして、アブラハムは、ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、全世界の人たちの信仰の義による相続人の模範となりました。アブラハムは、望みえない時に望みを抱いて信じました。すなわち、もはやアブラハム自身が100歳の高齢になっており、妻のサラも高齢になったいたので、人間的には子をもうけることは不可能であったにもかかわらず、アブラハムは、「不信仰によって神様の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」(20、21節)。それゆえに、アブラハムは、その信仰により義と認められたのです、とパウロは説明します(22節)。
さらに、それはアブラハムだけでなく、主イエスが死者の中からよみがえらせ方を信じる私たちも、その信仰により義と認められるのです、とパウロは主張しました(24節)。つまり、主イエス様は、私たち背きの罪のゆえに、十字架で死なれましたが、さらに、私たちを信仰によって義とするために、死者の中から復活されたのであると、パウロは結論付けています(25節)。
パウロは、私たちの救いは、報酬によるのではない、と断言しています。報酬というのは、働きに対する代価であり、当然、受けるべきものであり、その人自身に帰するものです。しかし、なんの働きもないものが、受けるとしたら、それは恵み以外の何物でもありません。異邦人もユダヤ人も、アブラハムもダビデも、旧約時代の人々も新約時代の人々もみな、不敬虔な者であり、救いに値するものではありません。ただ、不敬虔な者を義と認めて下さる方(イエス様)を信じる信仰によって、一方的な神の恵みにより義とされます。
私たちの行いではなく、神の恵みによる救いです。主はあらゆる方法で、私たちに語り、私たちを導かれます。
主の祈り:天に御在天の神様、今日の御言葉を有難うございます。感謝の気持ちで一杯になります。イエス様の尊き御名によって感謝して祈ります。 アーメン