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Tropical Leaves

HCCディボーションブログ

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「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。」(16)


 この2章では、人が人を裁くことを厳しく戒めています。16節には「神のさばき」とあり、あくまでもさばくのは神だけであることが明示されています。人のさばきではなく、神のさばきなのです。

 

 そしてパウロは「私の福音」と言っています。どこが福音なのでしょうか。一つは、そのさばきが行われるのは「その日」だということです。これはイエスの再臨の日のことです。つまりさばきの日は、今ではなく再臨の日ということです。ですから私たちには何度でも悔い改めるチャンスがあるということです。裁かれるような罪を犯しても、さばきの日が来る前に悔い改めることができるのです。


 もう一つは、さばきそのものが福音だということです。滅びに至る者にとっては、それは恐れの日です。しかし救われた者にとっては主に再び会う喜びの日です。さばきとは、白黒、アウトセーフがはっきりする時です。救われた者にとっては、それは喜びの日なのです。

 

 だからこそ「隠された事柄」とあるように、悔い改めを拒むことなく、罪を告白して、光なる主のもとにいつもいることが大切です。

 問題は、罪を犯したかどうかではなく、その罪を闇の中に隠すか、それとも告白して主の光の中に置くかです。

  

 主の日が近いと感じる今の時代、いつ主が来られてもいいように、常に光の中に歩みたいと心から願います。


 天の父なる神さま

 神のさばきの日は、私たちにとっては、主に再び会うことの出来る希望の日であり、喜びの日です。

 その日まで、罪を隠すことなく、つねに光の中に歩むことができますように。聖霊の励まし、守り、導きを豊かにお与えください。

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン                                               文:関真士


『信仰の従順』


 ローマ書には、ひとつひとつの章にまるで宝石が無造作にばら撒かれたように福音がちりばめている、聖書の中の聖書と言っても良いかもしれない。語り手はイエスのしもべ、福音のために選ばれた使徒パウロです。主は彼を召されました。ユダヤ教に精通し、最高の教育を受け、語学堪能でユダヤ・ベニアミン族でありながらローマ市民であるパウロを選び出して、主のしもべとされたのです。


 パウロは少なくとも3回の伝道旅行で、あらゆる地中海沿岸国、この時代においては世界中に福音を伝えましたが、ローマ帝国の首都ローマに行きたがったが妨げられていたと記されています。自分が思うには、ローマに行けなかった理由のひとつには、パウロが経験を積むこと、つまりパウロの伝道旅行で各地のシナゴグを訪ね歩き、ユダヤ教信者との激しい対立と論争を経験した故に、律法と主イエスの福音、メシアとしての十字架と復活の意義をシナゴグのユダヤ人宗教指導者たちとの論議を重ねたおかげで、最終的に、このローマ書によって、主イエスの教えと福音が聖書(旧約)に基づいたメシアのみことばである事を、熟考の上、ハッキリとクリスチャン教理を説明するための伝道旅行での体験を通じて、ローマ書に到着するのが与えられた使命ではなかったと思うのです。

 

 その結果、パウロの鋭く、研ぎつまされた頭脳で、ユダヤ教から主イエスの福音を論理的に説明し、福音の喜びを伝える事がローマ書にて、提示できるようになったのではないかと思います。そのおかげで、やがて当時の世界の中心であるローマでキリスト教は広がり、やがて世界中の異邦人に拡散されてゆきます。教理は論理的に理解できるものでなくてはなりませんが、それを信じる信仰には、私たちの自力を超えた主の力添えが必要なことも事実であります。主イエスはこの世の創造の時の立役者「わたしは神の傍で、これを組み立てる者であった。」箴言8章30節と表現されている、宇宙の真理である主を、私たちの知性で、理解できるように、このローマ書は、深い信仰を持つようにと導いてくれます。


 ローマ書1章では、福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、全ての人に救いをもたらす神の力であること、この福音には創造主である神の義が啓示されていて、義人は信仰によって生きることが力説されています。そうしてこれから、罪とは何か、律法と福音、神の義と救い、キリスト教の真髄を順をおって説明してくれるオープニングの章であることに感謝します。私たちに求められている事は、神の恵みだけに目を注がずに、神の義も同時に理解する信仰に進むことではないでしょうか。


 ローマの当時においても、今の日本にも通じることですが、ここで偶像礼拝、神を神としてあがめず、感謝せず、神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものを拝んでしまっている。確かに日本の神道は、すべての物に神が宿っているとして被造物を拝んでしまっています。ローマも同じだったことを私たちは知っております。神から離れてしまったために、あらゆる不義、殺意、中傷、不誠実、無慈悲がはびこり、性的乱れが当然となると示されています。 ローマだけではなく、今の日本や米国の現状はどうでしょうか。


17節「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」


祈り

いよいよローマ書が始まります。このキリストの福音である宝石が輝き出す学びに感謝いたします。私たちが信仰によって生きることができますように、導き下さい。 アーメン 

文:森 宗孝


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『ユダ王国、最後の王たち』


 主を忘れた南ユダの民の最後の王たちは、すべて主の目に悪い者たちばかりだった。エジプトという大国とバビロン帝国に挟まれて右往左往していた時代、王の名前が似ているので分かりずらいが、ヨシア王の子エホアハズはわずか3ヶ月、次にエジプトに推されて王となったエルヤキムは11年間、その後バビロン帝国に捕虜となった、次の王はエホヤキン、たった3ヶ月と10日に終わる。次のバビロンに推された王、ゼデキヤの治世は11年、そうして高慢となったのか、バビロンにも、ユダヤの祭司にも忌み嫌われ、やがてバビロンに捕えられた。


21節「これは、エレミアによって告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。」


 ユダ王国は悪王たちが続いて、ついにバビロンによって滅ぼされ、ユダの民はバビロン捕囚を体験するのだが、この21節には、これは預言者エレミアのことばが成就するためであり、この地が安息を取り戻すためとある。安息を取り戻すとは、主のあわれみを受けたシャロームをもう一度受けるため、ユダの地、ユダの民は荒廃してしまい主から離れているので、さらに主による安息を取り戻すために七十年という、なざ70年なのか、それはきっと、ひとつの世代を終わらせ、次の世代へと移行するという、世代を超えた時間の中で、主を求めるように悔い改めよということではないかの思う。そうしてユダの民は、主のことばは必ず実現する事を、身をもって体験させられたのだ。


エレミア書29章10〜13節抜粋「まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる....それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ......心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」


 故郷を思い起こし、捕囚の地で肩身が狭い思いをしていたユダヤの民は、70年間の捕囚を終えて、念願のエルサレムに戻り、徐々に神殿も建設されていく訳ですが、この経験以降、偶像礼拝を徹底的に忌み嫌う民族になっていったのではないかと思います。やがてそれが律法主義に走ってしまう要因にもなるのですが、ユダの民は、主からの試練と捕囚からの主による解放を体験するのです。


 主の約束、みことばは必ず成就することを歴代誌から学びました。


祈り

主は私たちを鍛えるために、聖なる民がアッシリアやバビロンによって制裁を受けるなかでも、心を尽くしてわたしを求めるならば、わたしを見つけるとして。ペルシャ王キュロスを奮い立たせました。私たちの救いは、主イエスによって与えられています。どうか私たちが心をつくして主を求めますように  アーメン 

文:森宗孝


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